2015/12/31

東欧旅行記_チェコ(クトナ・ホラ)

最終章は、寄り道の話。

ルーマニアを出てからは、またまた一目散でスロバキアにいるマークスの友人を訪ねる。
彼もドイツで働いていて、休暇でこのスロバキアの実家に戻っている最中だった。

ここでは3日間泊めてもらい、楽しい家族がいるお家でノンビリ過ごさせてもらった。
特にくり坊が、毎日クタクタになるくらい子供たちに遊んでもらっていて、大ハシャギだった。


スロバキアを出て次に向かったのはチェコ。

チェコと言えば見どころがいっぱいある国なわけだけど、私はとにかく家に帰って庭仕事を
したり、ゆっくり料理したり、フツーの日常がとにかく恋しかったので、帰路を急ぐのみ。

だけど、1か所だけ行ってみたかったところがあり、丁度通り道だったので立ち寄ってみる
ことにした。

その場所とは。。。

骨教会


 セドレツ納骨堂 

1万人分の遺骨で教会内が装飾されています。



天使とシャレコウベ

骨シャンデリア



ここまで骨だらけになるともう芸術で、オドロオドロしい感じは全くせず、むしろ人体標本を
眺めるかのごとく、骨の形なんかを観察するという感じ。

完全に観光地なので、人もわんさか、みんな骨と一緒に写真とりまくりだった。

でもよく考えてみると、すべての骨の背景には、人間として生まれ生きていた歴史があるわけで、
まさか将来自分がシャンデリアの一部になるなんて思ってなかったはずだとか思うと
とてもシュールな光景で、不謹慎ながらも、おかしくなってくる。

ということで、今回の旅の締めくくりは「骨」でございました。

通り道だったから来たけど、わざわざこのために出向いたかと言われれば、、、、ウーン。
という感じです。



それから私たちはここから70キロ程離れたプラハをフツーに通過し、途中のローカルな
食堂でチェコ名物のグラーシュとクネドリーキを食べ、ドイツに到着。

そのまま家に帰るには、結構な距離を走り疲れていたので、途中の原っぱにて就寝。

翌日、念願のHome sweet home.

予定より1週間ほど早めに帰ってきたのです。

今回の旅は何度も書いた通り、不完全燃焼で終わったという感じだったけど、
東欧はそれでも魅力満載だと思うので、絶対にまた回ってみたいと思う。

そのための下見だったと思えばいいかな。

1歳児連れのキャンピングカートリップも、思ったほど大変ではなかったし、来年、再来年は
もっと楽になり、もっと一緒に楽しむことができるはず。

そう思うと次の旅も楽しみです。

次からは、あてずっぽうの旅ではく、もうちょっと情報収集とかちゃんとしようと思う。
特に地元民との絡みがない旅では、そういうことがホントに大切だと痛感したから。


次回はいよいよ念願のあの国での旅日記になりそうです。
そう遠くない日に、またつらつら書けたらうれしいなー。

2015年東欧旅行記



2015/12/30

東欧旅行記_ルーマニア (ブクウィナ)

強引に最終章!その1

すっかり忘れておりました、旅日記。
年内に書き上げるぞと思ってたら、残すところ今年もあと1日!

実は3月から始まる新たな旅の構想を練ろうとしているところでして、「ああ、そういえば!」と
思い出したのであります。

地味ーに終わりますよ、東欧旅行記。

細々と覗きにきてくれたみなさん、ありがとう!



さて、灼熱のルーマニアを旅していた私たちは、最後北東部にある小さな町に住むある人を
訪ねるべく、ちょっと頑張ってロングドライビングの2日間。

その人というのは、かれこれ16年も前にマークスがバイク旅をしていた時に出会った人物で
その時は3日間ほど彼の自宅で過ごしたらしい。

彼は、失われつつあるルーマニアの伝統的な暮らしをしながら、森林エンジニアとして働いている。

そしていつだったかドイツのテレビで彼の生活を元に作られたレポート番組をたまたま見て
「よっしゃ、彼に会いに行こう!」というのが、ルーマニアに来るきっかけでもあった。

余談ではあるがこの番組では、電気も水道もなく昔ながらの伝統的な暮らしをしている彼の
友人のことも多く取り上げられていてた。

未だに炭火でアイロン掛けをする奥さんに、電気が欲しいとねだられ、一大発起して電気会社に
頼みに行くも、高すぎるので仕方ないから近所の電線から勝手に電気を引っ張ってくる
というのが結末だった。


しかし放送終了後、ドイツ人から彼宛にたくさんの寄付が寄せられ、その結果合法的に電気を
引くことができ、今ではテレビや洗濯機を持つまでになった。

いいんだか悪いんだか、彼らの暮らしは大きく変わってしまった。

そんな暮らしぶりも見てみたいなーと、そして何日かこの地方に滞在してトレッキングや
昔ながらの暮らしに触れられたら、なんて期待を胸に超特急で向かったのである。

しかし、しかし。

目的を持って、目的の人物に会いに行くわけだけど、肝心のその彼に、連絡というのをして
いない。

最後に連絡をとったのは、まさかまさかの16年前。

そこに今も住んでいるのかも、彼が果たしているのかもわからない。
わかっているのは、テレビで見たもん、ちょっと歳とってたけど、あの時いたおじいちゃんと
一緒にあの家が映ってたし、ということは、いるんじゃね??

的なノリ、いつもの。

そういつものこの人、マークス君、アポなし訪問はいつものことだけど、それにしても行くところが
遠すぎるよ。

まぁ、いればラッキー、いなければ。。。それはその時考えよう。

うん、そうしよう。

ということで、サプンツァ村から出発し小さなキャンピングで一泊した後、ものすごい山道を
1日で走り抜けて、やってきた訳であります。


クネクネ道を上ったり下りたりすること数時間。

ようやく目的地の町に到着。

住所なんて、わからない。

なので、彼の名前を書いた紙を通りすがりの人とかに聞いて回る。

少し迷ったけど、その場所が近づくにつれてマークスの記憶がよみがえってきて、やっと家を
見つけだした。

すっごい細い砂利道に、ドイツナンバーのキャンピングカー。
なんか、嫌な感じだなぁ。



そして、車を降りて16年前にここで3日間お世話になったという家の門を叩いた。





結果から言うと、ちゃんといたのです、そのおじさんは。

しかし、16年前、いや番組が放送された2年ぐらい前とはずいぶん状況が異なっていた。

まず、マークスも会ったことのあるおじいさん(彼のお父さん)は、放送直後に亡くなっていてた。

そのおじいさんというのが長年学校でドイツ語の先生だったので、今回会うことが
出来たご健在のおばあちゃんも少しドイツ語が話せ、坊にたくさんドイツ語で
話しかけてくれていた姿が、とても可愛らしかった。

そしておじさんは長年連れ添った奥さんと離婚して、まだ日が浅いのだと言っていた。

彼は退職してまだ間もないけど、今はこの辺の観光や森林ツアーのガイドとして生活
していて、そういうのもあってテレビで紹介されたらしい。
 
その仕事がうまくいってるのか、自宅の敷地内に2階建ての立派な宿泊施設を建設し
各国から客人を受け入れているらしい。



久々の再開。
16年前のこと、うっすらと覚えてくれていたらしいけど、今考えると、図々しいにも程があるよなー。

私と坊は初対面。

急な訪問にも関わらず快く招き入れてくれて、ここまで来た甲斐があったものだと胸を撫で下ろした。

なんだけども。。。

おじさんは宿泊施設も運営しているので、私たちはそこに泊まる客のような扱いをして頂き
こっちとしても気まずいったらなかった。

そんなつもりではなかったのに。。。

食事もおじさんがキッチンで用意してくれて、それを食堂のテーブルで私たちだけで食べたり
ベットルームも丁寧にも1部屋提供してくれたけど、そのあと「では、ごゆっくり」と言って
彼は同じ敷地内にある自宅に戻ったきり、次の朝まで会わなかった。


朝は起きたら朝食が用意してあって、それをまた食堂のテーブルで寂しく食べた。

やはり、招かざる客だったのか。

マー曰く、昔の彼はもっと陽気でお酒が好きな楽しいおじさんだったと。
そんなイメージだったから、今回もいきなり遊びに行って驚かせちゃおうみたいなノリだったん
でしょう。

だけど、ここ数年の父親の死や離婚などで、ウツ状態が続いたようなので
人柄もすっかり変わってしまったようだ。

そりゃあそうだよな、もし自分がウツで人にも会いたくないなんて時に、いきなりアポなしで
知らない人がやってきたら、私だったら「ごめん、ムリ」で済ますかな。

今回は完全にマーの読み違え。
 
普段空気が読めない彼でさえも、そんな空気を感じ取ったらしく、さすがに数日滞在して
周辺を連れまわしてもらおう計画は1日で変更。

これが旅の最後の楽しみだったわけだけど、そんなこんなでなんとなくテンションが下がり
この後行くはずだったトランシルバニア地方へも足を延ばさず、ドイツに帰ろうということに
なった。

私たちは2日かけて走った山道をそのまんまノンストップで駆け下りて、サプンツァ村の
修道院の駐車場に深夜たどり着き、そこで夜を明かすことにした。

翌日。

帰路の旅に出発した日曜の朝。

道を行く人々が、このあたりの民族衣装に身を包み教会に向かう姿が、国境に向かう間
ずーっと見られた。

ルーマニア正教の熱心な信者である人々は、日曜には正装をして教会に出向くらしい。

思っても見なかったことで、ちょっとテンションがあがる。
最後ルーマニアで、素敵なものが見れて良かったな。

通りかかった教会の外では日曜礼拝のセレモニー的なものが行われていたので、
柵越しに覗かせてもらった。







この日気温は40度を超える猛暑にもかかわらず、この衣装というのは見てる方はいいけど
着てる人達はかなり暑そうだった。

着物を着るときみたく、色々と決まり事とかあるのかな。

だけど、ひざ丈のスカートを履いてるお婆ちゃんたちの姿は、実に可愛かった。

もうしばらく居れば、踊りとか始まるのかとおもったけど中々始まらず、とにかく暑かったので
私たちはその先を急ぐべく、ルーマニアを後にした。

最終章2に続く 

2015/12/08

東欧旅行記_ルーマニア (サプンツァ)


ルーマニア北西部、マラムレシュ地方のサンプツァ村の事をテレビで見たのはいつだっただろう。

ここには「世界一陽気な墓地」と呼ばれるメリーセメタリーという墓地があって、小さな村なのに
この墓地を目当てに年間3万人もの観光客が訪れるらしい。

いつか来てみたいと思っていた場所。

その朝私たちは少し早起きし、日差しが優しい午前中の移動を試み、久々にワクワクしながら、100キロの道のりをひた走る。


そしてついに到着したサプンツァ村。

ちなみにここの情報は、私が家を出る直前に手帳に殴り書きした「サプンツァ村、墓」のみ。
だから、村に着いたはいいけど、どこに何があるか全くわからなかった。

しかし、観光名所でもある墓地の看板がないはずはない。

とりあえずなんか看板が出ているところに車を止めて、それらしき方向に歩いてみる。
しかし、そこにあったのは修道院だった。










この修道院は木造で高さが70mあるという、とてつもなく高い建物だった。

時刻はちょうどお昼頃で、ゆっくり歩いて見物しているだけでもダラダラ汗が噴き出てくるぐらいの
猛暑。

その猛暑の中で、大きな草刈り鎌を10分おきぐらいに研ぎながら、延々と草刈りをしている
おじさんが二人。

こんな広大な敷地の草刈りを手作業でなんて、1週間でも終わらなそうなのに、あくまで
鎌にこだわるのは、何か伝統とかなんだろうか。

実際、道端でも若者が大きな鎌を持ってトラックに乗り込むのを何度か目撃したし。

それにしてもかわいそすぎる。

でも、車の代わりに馬車がまだ多く利用されているぐらいの所だから、こんなのは当たり前なの
かもしれない。



とにかくものすごい暑さだったので、多分近くにあるであろう墓地に今すぐ向かう気にはなれず、
結局この修道院の駐車場に車を持ってきて、日差しが和らぐまで休むことに。

木陰に車を止めて私が昼寝をしている間、男衆二人は近くを流れる川を偵察しに行った。

そして、川に足をつけて2人で遊んでると、おもむろに拳銃を脇にさした警察らしき人が
近寄って来て、すぐさま川から上がれと警告されたらしい。

聞くと、ここは向こう岸はウクライナという国境を流れる川で、そんなところでのうのうと
遊んでしまっていたらしい。

パスポートを見せて、注意されて、それからその人は去って行ったらしいけど。

危ない危ない。危うく向こう岸に行くところだったって。

そんなこんなしているうちに、大分暑さが落ち着いてきたので、自転車に乗って散策がてら
墓地探しに出かける。

修道院からは自転車で10分ぐらいのところに、その場所はあった。

墓地の周りには、民族衣装やらお土産やカーペットを売る店が5,6件あって、観光名所の
雰囲気を漂よわせ、噂通り何の変哲もないこの小さな村のほんの小さな1角に世界中から人が
集まっていた。














この陽気な墓の発端は、1935年に村の彫刻家の青年が、遺族らが愛する者の死を
乗り越えられますようにとの願いを込めて、明るくカラフルに故人の生前の姿と詩を墓標に
刻むようになったのが始まりだそうで。



子煩悩なお父さんだったのかな?


パンを焼くのが大好きでした

溺れて亡くなった方



昼間は真面目な公務員だけど

夜は酒のまなきゃやってらんなかった。。。
電車にひかれ。。。。

セクレタリアに殺された???





悩み多き人生だったのかも

飲み過ぎで


交通事故死。でもなぜかこれを読んでる人達は爆笑していた。


肉屋でした。

リンゴ狩りが大好きでした



そして、彼こそがこの墓標の製作者。
2代目さんだったけな?




ここは紛れもない墓地なんだけど、周りでは笑い声が聞こえ、故人とは全く関係のない人達で
賑わっている。

まるで死者の魂を笑いで弔っているかのように。

そういうことも想像していたのだろうか。
かつてその彫刻家が目指した明るく楽しい墓、まさしく「世界一陽気な墓」がここにあった。

もし私が死んだら、この墓標には何が刻めるのかな?

私の人生を象徴するものって、一体何なんだろうと考えてみたけど、これと言ってない。
と、自分では思っている。

寂しいなー。

死ぬまでに、やっぱり何かを極めたり、コレ!というものに出会いたいと、そんなことを思った
墓巡りだった。

数年来の夢も叶ったりで、ここサプンツァ村に来れて本当によかった。


それから私たちは村の寂れたスーパーでビールを買い、車に戻ってくり坊に水浴びをさせ、
熱帯夜の中、その修道院の駐車場で眠ることにした。

2015/11/26

東欧旅行記_ルーマニア


灼熱のハンガリー。

ハンガリーといえば壮大な都、ブダペストがある国なんだけど、そんな場所とは全く無縁の
むしろハンガリー人からも忘れ去られているんじゃないかというぐらい、なーんにもない
寂れた地域を国境に向けて走り抜ける。

途中暑すぎて、湖の近くのキャンピングで1泊することにして、さっそく湖水浴にむかう。

しかし、海に面していないここハンガリーでは、湖でさえ貴重な娯楽施設でもあるので
柵で囲われ、入場料がとられる始末。

キャンピングでは超チャレンジャーなボッタクリ爺さんにぼられそうになったけど、危うくマーが
ねじ伏せ、正規の値段だけを払って目指す先はいよいよルーマニア!


国境につくと、なぜかゲート付近で長蛇の列。

ここはEU加盟国のはずなのに、なぜに国境審査などあるのか。

ハンガリーに入ったぐらいから、ポーランドでは良く見たユーロナンバーのキャンピングカーが
激減していた。

ルーマニアまで来るキャンパーは余程の物好きと見られるのだろうか。

案の定怪しまれ、車を別の場所に移動させられて、審査が始まる。

ルーマニアといえば、やはりチャウシェスクの独裁時代と、あの世界にも悪名高い
セクリタテア(秘密警察)の恐ろしい印象が未だに抜け切れず、どうしてもそういうフィルターを
通してここの国境警察隊のことを見てしまう。

「怖いんだろうなー」

荷物を全部おろせと言われたらどうしようかと思ったけど、車のドアを開けて、まず警察管の
目に入ったのは、おむつ1丁で爆睡しているくり坊の姿。

それを見て、「ああ、もう行っていいよ。」と、すぐさま開放してくれた。

子連れパワーーー!!


そうして無事にルーマニア入り。

国境から50キロぐらいの、最初に通りかかった街で腹ごしらえ。

ここまで来ると、町にはジプシー系の人達であふれ、服装もまさしくボヘミアンスタイルな
女性をちょこちょこ見かけた。

本当にこういう人達がいるんだと、感動したものだ。


ジプシージプシー書いてるけど、ジプシーって近年では差別用語にあたるらしく、本当は
シンティ・ロマとか言わなきゃいけないのかな??

ま、でも私は響きが好きなので差別の意味は含まず、ここではジプシーと呼ぶことにします。


ヨーロッパにいると、多くの人がジプシーに対してあまりいい印象を抱いてないというのが
日常の至るところで感じられる。

それは彼らが流浪の民であり、どこの国にも馴染めず差別され、その結果犯罪に走る人が
多いからだったりする。

そういう側面はあるものの、やはり彼らの独自の文化、とりわけ音楽や踊りに関する才能は
本当に素晴らしいと思うし、だからいつかルーマニアを旅してみたいと思っていた。

ジプシーに限らず、ルーマニア独自の文化がまだまだ生活の一部に溶け込んでいるような
昔ながらの暮らしを、今ならまだ垣間見れるのではないか、と言う期待もあった。


さて、私たちはどうにもこうにも耐えがたい暑さの中、町を去り山方面に向かってひた走る。

そして山道を適当に逸れてみて、寝床探し。

遠くに教会を臨む、景色の良い静かな原っぱにて就寝。

長年あこがれていた、サプンツァの墓地まで、あと100キロというところまで来ていた。






2015/11/18

東欧旅行記_ハンガリー1

猛暑の中、キャンピングカーの中で休むこと2日。

体調も大分良くなったので、先を急ぐことに。

もうドイツに帰っても良かったんだけど、せっかくここまで来たんだから
ルーマニアに住む知り合いだけは訪ねて帰ろうということになった。

私も移動中の窓の外を眺めながら、そういえばポーランドから出たとたんに様変わりした
住宅地の様子や、あとは道行く人のフレンドリーさに触れる機会がいきなり増えはじめ
この先の事が少しばかり楽しみになってきたというのもあった。

「もうちょっと、がんばろう。。。」


スロバキアをサクッと通り過ぎ、ハンガリーにやってきた。

ここからハンガリー



国境辺りから徐々に、ジプシー系の人々の姿が多く目に留まるようになってきた。

道沿いに立っている古い家の色や形にに統一感がなく、苔むして歪んだ屋根がどこまでも続く。

そんなのを見て、やっと外国に来たという実感がわいてくる。

ハンガリーは温泉大国で、事前に色々調べた熱々の湯につかりに行きたかったんだけど
あまり彼方此方をめぐる気力が残っていなかったので、通り道でだったミシュコルツの
洞窟温泉にやってきた。

ここは、野外のプールもあり、40℃を超える暑さと来ては、もうイモ洗い状態。


洞窟温泉は鍾乳洞のような洞窟の中に、四方八方に流れるプールみたいな水路があって
脇に反れるといくつかの静かな浴場にアクセスできるようになっている。

水温は37度ぐらい。

この静かな空間で浸かっているカップルがみんな、もう水の中で足を絡ませてベロベロベロベロ
チューしまくりで、気まずいったらなかった。

この国の若者にとって、温泉ってそういうところなんだろうか。



お水が大好きなくり坊は大はしゃぎで、キャーキャー言いながらパパの背中につかまって
プカプカ浮いていた。

私は源泉の滝にしばらく打たれながら、旅の疲れをいやした。






夕暮れ時、プールから上がってアイスを食べながら車に戻った。

肩車されているくり坊とマーの姿を後ろから眺め、何とも言えない懐かしさみたいなのが
込み上げてきて、胸がキュンとなった。

その夜。

泳ぎつかれたし、おなかいっぱいだし、その日は気持ちよく寝れそうだったんだけど
ここにきて、くり坊くんの就寝時必須アイテム「オシャブリ」がない。

彼が寝る時間はとっくに過ぎていて、眠さもあり、でもオシャブリなくちゃ寝れないで、次第に
機嫌が悪くなり、大泣きし、パニックになって大変なことに。

駐車場には何台かのキャンピングカーが止まっており、ガラーンとした空間にギャン泣きが
1時間近く響き渡る。

こんなのホント久しぶり。

たかがオシャブリ。されどオシャブリ。

結局見つかり、チュパっと咥えさせたら、ものの3秒でコテっと眠りについた。

恐るべし。

そして疲れ果てた私たちも、すぐさま深い眠りについた。

2015/11/09

東欧旅行記_スロバキア


何だかんだ言いつつ1か月近く滞在したポーランド。

すごく旅行しやすい国だと思う。

高速道路など、北部は通ってないところが多いけど、国道はちゃんと整備されていたし
原則的に、例えば路上や公園などで車中泊ができないとは聞いていたけど、全然できたし
そういう点では、ドイツなんかよりも緩い。

キャンプサイトはドイツ程の設備や清潔感には欠けるものの、私は十分だと思ったし
長期滞在型のキャンパーたちのマナーも良い。
ただしシーズン中の週末は、パーティーガヤガヤでうるさかったけど。
受付の人なんかは、ドイツ語を話せる人もが多かった。

物価面は言うことなし。

ドイツ系のディスカウンターや大型スーパーなどもあるんだけど、ポーランドにおいては
ちょっと割高スーパー位置づけなので、私たちは「ビエトロンカ」というてんとう虫マークの
全国チェーンのスーパーでいつも買い物していた。

食事もドイツよりもチョイスの幅が広く、安くておいしくて、文句なしだった。

ポーランドではBIO製品を買うのに苦労した。
ドイツではディスカウンターでも自社のBIOブランドがあるくらいBIO先進国なので、それに
比べるとお隣ポーランドでは、まだまだ一般市民の認知度も低いんだと思った。

ワルシャワとかの大都会にしかオーガニックショップはなかったし、いわゆる紀伊国屋のような
外国食材を扱うスーパーなどには、ちょろっとBIO商品が展開されているだけだった。

それは、以降訪れた別の東欧諸国でも同じだった。


人に関しては、ロシアでも感じた事がある、一種の冷たさを感じずにはいられなかった。

無関心というか、不愛想というか、プライドが高いのかなんだかしんないけど、今回の旅で
ポーランド人とは、殆ど絡みようがなかった。

前に電車でちょろっと旅をしたときは、人々のやさしさに感激したんだけど、土地によって
違うのかしら。

まぁ1か月しかいなかったけど、感想はざっとこんなところ。

でも、さっきも書いたけどすごく旅しやすい国なので、また来ようと思う。


旅の続き。

タトラで登山を終えた私たちは、少し車を走らせて山の反対側スロバキアに突入した。

ここから私たちの計画は、スロバキアをちょっと通り、ハンガリーを経由してルーマニアに
向かおうということに、一応なった。

旅に出て1か月。

ちょっとくたびれていた私は、あと1か月は続く旅路に、ほんのちょっと嫌気がさしていた。

ポーランド道中は、旅の快適さはあったものの、そこにいる人間との接点がなく、文化に触れる
機会が全くと言っていいほどなかった。

そんな毎日は、くり坊がいたからまだ気が紛れたものの、それでもいつもの旅に比べて
面白みは断然に欠けていた。

だから、ちょっと小出しに帰りたいモードを出しつつあったある日、ついに色んな意味で
色んなものが炸裂して、大変なことになった。


スロバキアやハンガリー。

このあたりの食文化に欠かせないパプリカやサラミをしこたま買い込んで、川辺でマーが
料理してくれたその日。

それはそれはおいしいレッチョー(という料理)を作ってくれて、一休みした後寝床を探しながら
南へ距離を進める。

その日は確か、どっかの山の裏にあった廃駅の前で1晩過ごすことになったんだけど
夜になり、なんだか機嫌も悪くなり、「帰りたいな、チェッ」と悪たれを付きながら眠りについた。

そして深夜になり。。。。

いきなり吐き気をもよおし外に出ると、びっくりするぐらいの勢いで吐き、そしておなかも
下っていた。

続いてマーも起きだし、同じような状態に。

特に吐き気がひどく、多分こんなに酷い食あたりは生まれて初めてだっただろう。
吐いても吐いても、昼間食べたパプリカが止めどもなく出てくる。

そして鼻からパプリカが出てきた時、ついに泣きながらマーにブチ切れた。

あの尋常じゃない吐きっぷりに、ちょっとパニクってたし、実際怖かった。

吐きすぎてなんだか寒くて、ガタガタ体を震わせなから

「もうやだ帰る、明日からドイツに向かおう。」

そんなことを、げっそりしているマーに明け方まで訴えつづけた。

そのころクリ坊君はというと、スヤスヤと夢の中。

大人と同じものを食べる歳じゃなかったのが救いだった。

何が原因だったのか、未だわからず。

20分ぐらい火を通した料理で、材料もその日買ったものだったのに。

当然この日を境に、パプリカがしばらく食べられなくなった。

見るのもだめ、臭いにも嫌気がさした。

スロバキア初日での出来事。

翌日、近くの畑に移動し休みつつ、ろくにご飯も食べられない日を2日ほど過ごした。

しかもそんな日に限って、ヨーロッパを千巻していた猛暑の熱波がここスロバキアまでも
及んでおり、暑くて暑くてグダグダで、もう腐ったぬか漬けのようにくたばり果てていた。

移動中。暑すぎて男衆はパンイチ。坊は移動中は爆睡。

2015/11/04

東欧旅行記_ポーランド11(Tatra登山)


翌朝。

天気が悪かったけど、せっかくなので予定通りの山に登ることにした。

雨が途中で降ったりしたけど、久々の山登り。

最高に気持ち良かった。

私は高さとか難易度とかはどうでもよく、色んな景色が楽しめて、色んなストーリーがある山が
好き。

この日登ったタトラの山は、果てしなく続く松林や、苔むした脇道、激流の雪解けの
川など、日本の山を彷彿とさせる風景はとても新鮮で、また日本の山の魅力を
再確認するような、そんな山登りだった。

日本の山は、やっぱすごくいい。

と、違う国の山に登ってるのに、結局いつも
「あー、日本に帰ってまず山に行きたい」とか言ってる気がする。

いつも日本の山と比べるのもどうかと思うけど、私はダントツで日本の山が好き。


と言いつつ、ご覧いただくのはポーランドの山です。






最後1時間ぐらいはけっこうエグい急斜面の岩場をのぼり、目的地の湖へ到着。

ここでお昼ご飯でもたべてのんびりしようと思ったけど、雨だったので来た道をまたすぐに
引き返し、森林ゾーンへと急いだ。

くり坊はお籠の上のお殿様。

終始ご機嫌、人生初の山登りでした。

ちなみにマークスは、4歳の時にはすでに2000メートル級の山に登らされていたらしく
私と彼の子であるくり坊にも、そんな日がくるのは遠くない気がする。




下山後。




下ってきたら天気もよくなり、川辺で一休み。

けっこうな筋肉痛になったけど、思い出に残る家族三人の初登山だった。


夜は、駐車場の隣にいたキャンパーと酒盛り。

フランス人とスペイン人のカップルで、フランスの真っ赤な救急車をキャンピングカーに改造して
1年近く旅をしているという面白いカップルだった。

話の中で印象的だったのが、フランス人の彼のおじいさんが戦時中、共産党員というだけで
捕獲されアウシュビッツに送られて、そこで亡くなったという話。

彼はどうしてもこの目でその現場を確かめたく、ポーランドを旅のルートに入れたらしい。

そこで分かったのは、おじいさんはナチスがガス室を導入して「最終手段」で大量虐殺する前に
亡くなっていたらしく、それを知った彼は少し胸をなでおろしていた。

それでも十分酷い話だけど、そういう話をポーランドでドイツ人に淡々と話しているという
目の前の場面に、ちょっとバツの悪さを感じた。

だけどその話がきっかけで、戦争や平和や人種差別や世界経済にまで話が及び、
そこでちゃんと議論しあえるヨーロッパ人の教養みたいなものを、ちょっとうらやましいと
思いつつも、メンドクサイなーと正直思ってしまった。

まぁわからないでもないけど、今日初めて会って、この時間しかないという人達と真面目な
話をする余力は、私にはなかった。

なので私は、スペイン人の彼女とワイン飲んでタバコ吸って「パエリアさいこー」とか言ってる
だけだった。笑


結局3時ぐらいまで飲んでいただろうか。


昨日の夜がいかに楽しかったか、翌日捨てに行ったワインやビールの空き瓶を見れば
一目瞭然だった。

そんなわけで彼らとは1日きりのご縁。

たのしい夜をありがとうと言って、彼らは北へ、そして私たちは南に向かい旅を続けたのでした。





東欧旅行記_ポーランド10(Tatra登山)

クラクフから山方面に向かう1本道は、休暇シーズン真っただ中ということもあり、この旅で
初めての渋滞にハマった。

タトラ山脈。

ポーランドとお隣スロバキアにまたがる山脈で、ポーランド随一の山リゾート。

麓の街ザコパネは登山客や観光客でにぎわっており、ここにもものすごい密度で人がいた。

宿泊施設も充実していて、レストランやバーもどこも満員だった。


私たちはまずキャンピングで一息つき、洗濯やシャワーを済ませた後、1キロほど離れた
街に向かい、腹ごしらえ。








街の裏通りにあった定食屋。

とにかくポーランド語がわからないので、適当に注文したけど、まあどれもこれも美味しいこと。
しかもこれで大体4ユーロぐらいなので、ハズレだとしても文句は言えまい。

ポーランド人からしてみたら、ごくごく普通の家庭料理の食堂ってところ。

次の日も一人でここに来たけど、満席で入れなかった。


この山エリアで作られてる手作りチーズ。しょっぱいけど美味。

やはり、ポーランドといえばピエロギ。餃子にビールの感覚で昼間っから一人でひっかけに来た。


あああ、食べ物のことばっか。

いいえ、タトラに来たからには、ちゃんと山登りもしてきました。

私は2日目は具合悪しで行けなかったけど、3日目は家族3人での初登山。



初日は父と子のみで。お籠に背負われる子。


良く道が整備されてたハイキングコースだったらしい。

多くの人がこの湖を目指す。

私はこのころ麓の街にいたけど、大雨だった。山の上は常に晴れ

1日目の登山を終え無事に帰ってきたところで、明日登る山の近くに移動することにした。




2015/10/29

東欧旅行記_ポーランド9(krakau)


大都会ワルシャワに続きやってきたのは、クラクフ。

17世紀に都がワルシャワに移る前まではポーランドの首都であったことから、古都の貫禄
たっぷりで、欧米では大人気の観光都市。






キャンピングカーが入れる駐車場はどこかにあったはずだけど、ちょうど土日で路駐ができる
いいところを発見してしまったため、そこに車を止めて自転車で街へと向かう。

ピザ屋さんの前だった。



有名な中央広場はまれに見る観光客密度で、そのうえ猛暑ともなれば、もう観光どころでは
ないので、サクッと街散策を切り上げ、せっかくなのでピザを買って、川沿いの芝生に座りながら
ピクニック。

もう、何しに来たんだか。




観光客向けのバザールで、民族衣装発見。

クラクフは大学がたくさんあり、学生が多い街らしく、今時ポーランドの若者の姿がよく目に
ついた。

長髪でジャンベ叩いてバスキングしてるポーランド人とか、この国に来て初めて見た。

ドイツではそんなのうじゃうじゃいるのに。


そして若者の街なので裏通りを歩けば、おしゃれなバーとかカフェがこれでもかというくらい
あった。

飲みに来るには、面白い街なのかもしれない。

だけど、翌日行ってもっと面白そうだったのが、ユダヤ人ゲットーがあったエリア。

「シンドラーのリスト」のシンドラーはこの近くに工場を持っていたこともあり、映画の多くの
シーンが、ここで撮影されたのだとか。

超大作の長編映画だったな。
ハタチぐらいの頃だったけか、映画館に観にいったなぁ。






このエリアは一時は閑散としていたらしいけど、今では開発が進み、個性的でオシャレな
お店がいっぱいあった。

バックパッカーが泊まり歩く安宿もこのエリアに集中してるらしく、旅人欧米人の姿も
久々に見たな。


最後に教会に立ち寄りこの街を後にし、目指すはザコパネ、山方面。

この教会は、このニュアンスを自宅のどこかに取り入れたいと思うほど、独特な
美しさがあった。