ヒナリックという村は、人口1000人ほどの小さな村で、
人々は山のひだにへばりつくように、石で出来た家を建で暮らしている。
家の作りも、喋る言葉も独特なものだと先日会ったミューラーさんが言っていたので
ちょっと遠回りだったけど、ひと目見るためにわざわざやって来たのだ。
遠目から見ると、あんなところにどうやったら人が住めるのかと思うけど
実際に登っていくと、細いけど車が通れる道もあるし、モスクやちょっとした博物館
まである。
目の前には4000m級のコーカサス山脈がドカンとそびえたち、風の谷とは
こういう所なんだと思った。
おじさんの家はその集落の一番上にあって、連絡を受けた息子が出迎えてくれた。
アゼルバイジャンまで来ると、ロシア語を話す人が少なくなると聞いていたんだけど
そうでもなくて、ここの23歳になる息子もロシア語を話した。
だけどもっと若い世代や、女の人は殆どが話せないと思っていいだろう。
彼意外ロシア語が話せる人が家にいなかったけど身振り手振りでなんとか
コミュニケーションをとる。
不意の客に戸惑いもせずもてなしてくれたお母さんは笑顔がメチャメチャかわいい
人で、その娘たちもとても可愛かった。
家は山に立つならではの作りで、階段や段差の多い不思議な作りだった。
村の様子も時代がいつからか止まってしまっているような、昔ながらの生活が今も
営まれていた。
不規則に建つ家の間の道はまるで迷路のようになっていて、陽があたる通りの角では、
おじいさんが数珠を手にしてうたた寝をしていた。
風の音しか聞こえなくて、タイムスリップしてきたような世界だった。
そして、家の中ではその辺にさりげなく敷いてある絨毯が素敵過ぎると思いきや、
お母さんは絨毯織りの職人さんで、ヒナリックはカーペットでも有名な村だと言ってい
た。
お母さんが何年か掛かりで織った絨毯の1つは、イギリスの何とか博物館に収められて
いるらしい。
居間の入り口にある古い絨毯には、思わず這いつくばって見とれてしまった。
どうしたらこんなことが手作業で出来るものか不思議でならない。
夕方過ぎにおじさんが帰ってきた。
毎日2時間かけて馬で出勤していると言っていた。
おじさんもまた戸惑うこともなく、良く来たねと快く迎え入れてくれて
一緒にご飯を食べて、テレビを見たりして夜を過ごした。
夕食に出てきた温かいケフィアのスープがメチャメチャ美味しかったなぁ。
それにしても家の電話が引っ切り無しに鳴っている。
私たちの車が家の前に停まってるもんだから、近所中で
「ありゃなんだ、あいつらは何者だ」と噂になっていたらしく、
その確認の電話が次々とかかってきているのである。
それにいちいち対応する家族の人たちも大変そうで、ちょっと申し訳なかった。
この日も別室に寝床を用意してもらい、泊らせてもらった。
翌朝、何故かおじさんが家にある絨毯を全部持ってきて、
わたしの前に広げて見せてくれた。
昨日私が絨毯に見とれている姿を見たからだろう。
買うつもりなどなかったけど、見せられるとどれも素敵なものばかりで
欲しくなってくる。
値段は分からないけど、お母さんの仕事量や柄の細かさ、そしてその独特さから
言ってかなり値が張りそうなのは分かっていた。
だけど一生ものにするのには妥当な品物だと思ったので、値段が良ければ買うことも
考え始めていた。
おじさんが絨毯の値段の話を始めると、お母さんはなんともいえない表情を
浮かべた。
お母さんは外国人に売るために、この絨毯を織った訳ではないはずだ。
私はこれは買ってはいけないものだと瞬時に思ったので、話題を変えて外に
出かけましょうとおじさんを誘い出した。
それでもおじさんは、他にもいい絨毯を持ってる人がいるからと言って次々と
近所の家のドアを叩いた。
なんだか絨毯目当てで来た外国人風になってしまったので、
買う気は一切ない事を伝え、絨毯あさりを終わりにしてもらった。
おじさんからしてみれば、もちろん売れたら万々歳。
でも私がここで買ってしまったら、外国人に高く売れる事を覚え、
家中の絨毯を売りつくしてしまうだろう。
他の家もそうやって現金を得る事を覚え、村中の絨毯が現金に変わってしまう。
それでせいぜい買えるものといったら、衛星放送のアンテナだの洗濯機だの
きっと車購入の頭金になる程度だろう。
だけど、同時に伝統や文化が流出して、失ってしまうことに気づいていない。
そしてすっからかんになった時に、失ってしまったものの大事さ、
それに引き換えて得たものが、ただのカネやモノだったなんて
気付いた頃には、もう絨毯を織れる人がいなくなってることだって
あるかもしれない。
私はこれを、ウズベキスタンの「スザニ」売りのおばちゃんを見てすでに感じていた。
スザニも元々は母から子へ受け継がれる伝統の布だけど、古布ブームだのなんだの
言って、外国人がこれを買いあさり、古い物ほど高値で売買された。
マーケットが成立し拡大し、今では観光客に売ることがメインになってしまった。
政府は50年以上前のスザニの売買を、ようやく禁止にしたそうだ。
よくぞ気付いてくれたと思う。
ヒナリックのカーペットも今では織り手が少なくなってきて、
わずかな職人しか残っていないと言っていた。
そして、お母さんの小さい織り機も、どっかのバカな外国人が買っていって
しまったらしい。
売る方も悪いと思うけど。
一泊二日のヒナリック。
幸運にも、またもや民泊する機会を授かり、この谷に住む人々の暮らしぶりが
垣間見る事ができ、ラッキーだった。
そして、あの美しき絨毯の写真だけは取らせてもらい、お母さんに笑顔が戻った所で
風の谷を後にしたのでした。
人々は山のひだにへばりつくように、石で出来た家を建で暮らしている。
家の作りも、喋る言葉も独特なものだと先日会ったミューラーさんが言っていたので
ちょっと遠回りだったけど、ひと目見るためにわざわざやって来たのだ。
遠目から見ると、あんなところにどうやったら人が住めるのかと思うけど
実際に登っていくと、細いけど車が通れる道もあるし、モスクやちょっとした博物館
まである。
目の前には4000m級のコーカサス山脈がドカンとそびえたち、風の谷とは
こういう所なんだと思った。
おじさんの家はその集落の一番上にあって、連絡を受けた息子が出迎えてくれた。
アゼルバイジャンまで来ると、ロシア語を話す人が少なくなると聞いていたんだけど
そうでもなくて、ここの23歳になる息子もロシア語を話した。
だけどもっと若い世代や、女の人は殆どが話せないと思っていいだろう。
彼意外ロシア語が話せる人が家にいなかったけど身振り手振りでなんとか
コミュニケーションをとる。
不意の客に戸惑いもせずもてなしてくれたお母さんは笑顔がメチャメチャかわいい
人で、その娘たちもとても可愛かった。
家は山に立つならではの作りで、階段や段差の多い不思議な作りだった。
村の様子も時代がいつからか止まってしまっているような、昔ながらの生活が今も
営まれていた。
不規則に建つ家の間の道はまるで迷路のようになっていて、陽があたる通りの角では、
おじいさんが数珠を手にしてうたた寝をしていた。
風の音しか聞こえなくて、タイムスリップしてきたような世界だった。
そして、家の中ではその辺にさりげなく敷いてある絨毯が素敵過ぎると思いきや、
お母さんは絨毯織りの職人さんで、ヒナリックはカーペットでも有名な村だと言ってい
た。
お母さんが何年か掛かりで織った絨毯の1つは、イギリスの何とか博物館に収められて
いるらしい。
居間の入り口にある古い絨毯には、思わず這いつくばって見とれてしまった。
どうしたらこんなことが手作業で出来るものか不思議でならない。
夕方過ぎにおじさんが帰ってきた。
毎日2時間かけて馬で出勤していると言っていた。
おじさんもまた戸惑うこともなく、良く来たねと快く迎え入れてくれて
一緒にご飯を食べて、テレビを見たりして夜を過ごした。
夕食に出てきた温かいケフィアのスープがメチャメチャ美味しかったなぁ。
それにしても家の電話が引っ切り無しに鳴っている。
私たちの車が家の前に停まってるもんだから、近所中で
「ありゃなんだ、あいつらは何者だ」と噂になっていたらしく、
その確認の電話が次々とかかってきているのである。
それにいちいち対応する家族の人たちも大変そうで、ちょっと申し訳なかった。
この日も別室に寝床を用意してもらい、泊らせてもらった。
翌朝、何故かおじさんが家にある絨毯を全部持ってきて、
わたしの前に広げて見せてくれた。
昨日私が絨毯に見とれている姿を見たからだろう。
買うつもりなどなかったけど、見せられるとどれも素敵なものばかりで
欲しくなってくる。
値段は分からないけど、お母さんの仕事量や柄の細かさ、そしてその独特さから
言ってかなり値が張りそうなのは分かっていた。
だけど一生ものにするのには妥当な品物だと思ったので、値段が良ければ買うことも
考え始めていた。
おじさんが絨毯の値段の話を始めると、お母さんはなんともいえない表情を
浮かべた。
お母さんは外国人に売るために、この絨毯を織った訳ではないはずだ。
私はこれは買ってはいけないものだと瞬時に思ったので、話題を変えて外に
出かけましょうとおじさんを誘い出した。
それでもおじさんは、他にもいい絨毯を持ってる人がいるからと言って次々と
近所の家のドアを叩いた。
なんだか絨毯目当てで来た外国人風になってしまったので、
買う気は一切ない事を伝え、絨毯あさりを終わりにしてもらった。
おじさんからしてみれば、もちろん売れたら万々歳。
でも私がここで買ってしまったら、外国人に高く売れる事を覚え、
家中の絨毯を売りつくしてしまうだろう。
他の家もそうやって現金を得る事を覚え、村中の絨毯が現金に変わってしまう。
それでせいぜい買えるものといったら、衛星放送のアンテナだの洗濯機だの
きっと車購入の頭金になる程度だろう。
だけど、同時に伝統や文化が流出して、失ってしまうことに気づいていない。
そしてすっからかんになった時に、失ってしまったものの大事さ、
それに引き換えて得たものが、ただのカネやモノだったなんて
気付いた頃には、もう絨毯を織れる人がいなくなってることだって
あるかもしれない。
私はこれを、ウズベキスタンの「スザニ」売りのおばちゃんを見てすでに感じていた。
スザニも元々は母から子へ受け継がれる伝統の布だけど、古布ブームだのなんだの
言って、外国人がこれを買いあさり、古い物ほど高値で売買された。
マーケットが成立し拡大し、今では観光客に売ることがメインになってしまった。
政府は50年以上前のスザニの売買を、ようやく禁止にしたそうだ。
よくぞ気付いてくれたと思う。
ヒナリックのカーペットも今では織り手が少なくなってきて、
わずかな職人しか残っていないと言っていた。
そして、お母さんの小さい織り機も、どっかのバカな外国人が買っていって
しまったらしい。
売る方も悪いと思うけど。
一泊二日のヒナリック。
幸運にも、またもや民泊する機会を授かり、この谷に住む人々の暮らしぶりが
垣間見る事ができ、ラッキーだった。
そして、あの美しき絨毯の写真だけは取らせてもらい、お母さんに笑顔が戻った所で
風の谷を後にしたのでした。
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