2009/12/28

ゴール目前です!

旅に出て8ヶ月がたちました。
もう今はお腹がいっぱいで、早いところ帰ってしまいたいような気も
しているんですが、これから半月ぐらいかけてドイツに帰る予定です。

イスタンブールを出てからはもうヨーロッパ。
300~400キロごとに国境があり、かなりめんどくさいです。
一昨日マーカスの友達が住むセルビアの「ノヴィサド」という街に
やってきました。

さっき街を散策していたら、ジプシーが街角で演奏していました。
なんだか素敵なところです。
年明け早々ここを出発して、ちょろちょろ寄り道をしながらゴールを
目指します。

皆さん、良いお年を!

The way to border of Turkey

翌日。

黒海を横目に見ながら走ること4時間。

ようやくバテゥミに到着した。

海沿いで温暖だからなのか、ミカンの木やら竹やぶが沢山あった。

次の国トルコは物価もそこそこ高いと聞いていたので、

食材を一通り買い揃えてからサクッ国境まで行って、トルコ入りするつもりでいた。

バテゥミ観光は特にせず、買い食いしたりブラブラしているうに

日も暮れて雨まで降りだしてきてしまった。

なので、今日は誰かのお家に泊まらせてもらおうということになり、

街から少し戻った山の方に向かう。

バテゥミのハチャプリ屋

山からの海の眺めは最高で

「どうせ訪ねるんだったら景色がいいところがいいよね」

マーカスが図々しい事を言い出し、その言葉どおり海沿いの

ミカン農家を訪ねた。





庭では収穫し終えたミカンを買いつけにきたアルメニア人のおじさんたちが、

計量して車に積んでいる最中だった。

そこにいた1人の女性がこの家の主人で、車だけ停めさせてと下さいと

お願いしてみた。

すると、離れにゲストルームがあるからそこで休んで行きな

さいと部屋に通された。

夜になり車で食事の準備をしていると、

「そんなことする必要ないよ」と途中でやめさせられて、

母屋らしき所案内され、夕食をごちそうになった。

おばさんの手作りモツァレラチーズがめちゃめちゃ美味しかった。

家には中学生ぐらいの息子と、85歳になるおばあちゃんが一緒に暮らしていた。

3人ともロシア語で会話をしていた。

小さな小さなおばあちゃんは2年前に失明してしまったらしく、生きてるのが

辛いとつぶやいていた。

翌日晴れていればみかんの収穫を手伝ってみたかったんだけど、

あいにくの雨で出来なかった。

そしてお別れの際は、みかんやら果物やらお土産を沢山もたせてくれてた。

最後におばあちゃんが、宙を見ながら震える手で十字架を切って

旅の安全を祈ってくれた。

それがものすごく印象に残る場面だった。

そうしてバテゥミを後にしてグルジアの旅を終え、すぐそこのトルコの国境まで

やってきた。

大きな国なので、それなりに時間もかかるもんだと覚悟を決めていたんだけど

荷物検査も一切されず、結局1時間ぐらいでトルコに入国することになった。

またまた黒海を横目に走り、最初にたどり着いた街で地図を広げてこれから

どこに行くか話し合ってると、近くにあるミナーレ(モスクの横にある大きい塔)

祈りの時間を告げる歌が流れてきた。

今朝までいたところと100キロも離れてないけど、国境をまたいだとたん

雰囲気ががらりと変わる。

またまたイスラム教の国。

公共の場での飲酒は禁止されていて、自宅で飲む人も滅多にいないだろうから

グルジアで散々酷使した肝臓を、ゆっくりお休みさせてあげようと思う。

After gori

翌日、酒が完全に抜けてすがすがしい朝。

週の初めということもあり、オフィスは忙しムードだったので

サクッとお別れの挨拶をして、オフィスを後にした。

そして「スターリンミュージアム」。

ここゴリは、あのソ連の独裁者スターリンの生地でもあるのだ。

敷地内には彼の生家があって、農民が住んでいそうな小さなその家は、

コンクリートの建物で覆われていた。



昨年のロシアの爆撃の際は、さすがにここだけは攻撃されなかったらしい。

ミュージアムの中に入ると、小さな券売所があって「電車にのりますか?」と

訪ねられる。

何のことか分からなかったけど、「スターリン電車」というものがあるらしく、

それには別料金が必要だといわれた。

スターリン電車?! 

気になる、気になる・・・・と思ったけど、気になる程度

だったのでパス。

ミュージアムは主に写真の展示で、そこまで面白いものではなかった。

しかも説明がすべてロシア語だったので、なおさら分かりづらかった。

だけど、写真で見る限り普通の少年から、まともそうな青年期を過ごした彼が

何であんなに極悪非道な独裁者になったのかは興味深いところ。

相当な狂人だったんだろうな。

そしてこんなところに来る客など滅多にいないせいか、係員の態度がひどくて

博物館なのに大声でおしゃべりしてゲラゲラ笑って、早く帰れよ視線が背中越しに

ひしひしと伝わってきて、残念なところだった。

これで10ドルはないだろ・・・

見学が終わりお土産売り場を覗いたら、

「スターリンワイン」や「スターリン栓抜き」など

これまた気になるものが満載だった。

ゴリをようやく去るときが来た。

この1時間足らずの滞在予定だったのが5日に延びてしまったけど、

またまた素晴らしい思い出が沢山出来た街でした。

そして一路、トルコとの国境の街「BATUMI」(バテゥミ)を目指す。

途中に通った村の外れで1泊することに決めて、ご飯を作ってると

豚飼いのおじさんやら牛飼いの兄さんが、興味津々に訪ねてくる。

家に来ないかと誘われるけど、しばらくは人と関わりたくない

モードだったので断る。

いつもなら喜んでお邪魔するんだけど、この日ばかりは静かな時間がどうしても

必要だった。

そんな理由があるのも知らず、何で誘いを断るんだと怪しんだ村人が、

ミカンやらなんやら、変な果物を片手に持ってやってくる。

「頼むから、放っといてちょうだい!!」

そう叫びたい気分だった。

日が完全に落ちてからようやく静寂が訪れた。

久々のテントが天国のように思えた。

やっぱり、我が家が一番!

Gori day4

翌朝ミーシャのオフィスに戻り、ソファーの上でゴロゴロしていたら

例のごとくミーシャがやってきた。

「朝ごはんがあるからおいで」

この言葉は「酒飲むぞー」というのとあまり変わらないような気もするんだけど、

お腹がすいたので、キッチンに向かう。

今日は日曜にもかかわらずワールドビジョンのおじさんたちが朝から

キッチンに集まり、魚を食べながらビールを飲んでいた。

あのとんでもない「チャチャ」をビールをチェイサーにして飲んでる人までいた。

そして例外なく私もチャチャを飲まされ、いつの間にかオフィスの管理人の

部屋で寝てしまっていた。

夕方になり、ミーシャがやってきて明日のグルジアの祝日「ST GEORGE DAY」の

お祝いをしにレストランに行くから、着替えておいでといわれた。

前日から祝うんだ・・・

レストランのテーブルは予約してあって、偉そうな人が沢山いる席に一緒に座り、

グルジアワインを沢山飲み、重ねられてる皿をめくって料理を頂き、

生まれて初めて知らないお兄さんに「踊りませんか?」と誘われ、

チークダンスを踊ったりした。

あとでマーカスが撮っていた私のチークダンス姿をビデオで見たけど、

笑えるぐらいガチガチで下手だった。

そしてここでもまた、グルジア音楽で舞う人々を見ることが出来た。

昨日見たやつよりもっともっと情熱的で、感動して思わず涙が出てしまった。

これはいずれ、ムービーで。

翌朝、今まで体験したことの無いような二日酔いに襲われた。

体がしびれているのである。

手もしびれて思うように動かない。

それもそのはず、3日間朝から晩まで酒を飲み続けて、しかも昨日は

ビール・チャチャ・ワインのいわゆる〝ちゃんぽん〟をしてしまったのだ。

心配して様子を見に来てくれるオフィスの管理人セルゲイは、

涙が出るほどジェントルマンで優しいんだけど、

「カーチャ、こういう時はね、コニャックを飲んだらすぐ良くなるよ」と、

迎え酒を勧められる。

しかもコニャックなんて。。。

あとからやってきたミーシャにも、その後やってきたミーシャの友達のお医者さんにも

「コニャック、コニャック」を連発される。

飲んだらホントに直るのかなと思ったけど、さすがに飲めるはずもなく

味噌汁を作って大量に飲んで、その日は1日中うなだれていた。

夜になって調子も戻ってきたころミーシャがまたやってきて

「今からSTジョージのお祝いで女友達の家に行くよ」と、有無も言わさず、

連れ出される。

「今日は絶対に飲めないからね」と念を押すが、その女友達がものすごい

キャラの持ち主で、また飲まされる羽目に。

とにかく彼女の酒の飲ませ方がすごい。

「プリティーウーマン、ラララララ~♪」と歌を歌った後で、

「世界で一番いい女はだれだか知ってる?カーチャ、あんたよ、ジュリアロバーツ

なんてビッチよ、ビッチ。OH!マンマミーア!」

その後キスの洗礼を受け、グラスにワインが注がれる。

グラスに口をつければ気が済むらしく、飲んだふりをしてあとは皿をめくりながら

自家製のイチゴジュースをちびちび飲んでその夜はなんとか乗り切ることができた。

これで酒の話はおしまいです。

おいしいワインにおいしい料理。踊る人々。楽しかったなぁ。

この4日間。

飲んで、食って、酔いつぶれて寝て、また飲んでの日々。

ほんと、それしかしてない。

そしてこんなにパーティー三昧な日々だったけど、1円もお金を使わなかった。

使わせてくれなかった。

太っ腹グルジア人。

そして「私の日本の娘だ」と可愛がってくれたミーシャ。

今回来たのが冬だったので、雪もすごいらしく北の方には行けなかったけど、

いつか季節の良い時にグルジアを訪れ、その時はまたミーシャや

ここの人達と是非とも再会したい。

 また絶対に来ると、胸に誓いました。



この愉快な人々が住むゴリにも、たった1年前にはロシア軍の爆撃があり

何人かが亡くなったらしい。

街は修復され、ここで戦争があったなんて様子はうかがえなかったけど、

どんなに恐ろしく、悲しい出来事だっただろう。

戦争をしてるのは国と国の問題で、ほとんどの人がその理由など知らなかった。

だから私も何でだか最後までよく分からなかったけど、1日も早く問題を解決して

避難している人々が元の生活に戻れることを願います。

2009/12/22

Gori day 3

遠足の当日。

あいにくの雨。

貸し切りの大きなバンがやってきて、途中途中で人を拾いながら

猛スピードで向かった先は、ゴリから300キロほど離れた山間にある

古い教会があるところ。

ティビリシを通過しアゼルバイジャンとの国境の近くも通るという、

私たちが二日前にすでに通ってきた道を、まんま逆行することになった。

バスの中はグルジア音楽が大音量で流れているが、これがまた素晴らしい

音楽だった。

目的地に付く頃にはすっかり晴れていて、雪をかぶったコーカサス山脈が

青空の中にくっきりとそびえ立つのが見えた。

教会はオーソドックスの古い教会で、敷地内に入ると写真も取れない厳しい

場所で、中に入っていくと修復工事をしている最中だった。


ソ連時代には宗教が禁じられていたため、この古い教会の美しいフレスコ画も

上からの黄色いペンキで塗りつぶされ、倉庫として使用されていたらしい。

歴史的価値はもちろん宗教的にも尊いものも、社会主義の国家を形成するには

邪魔なものでしかなく、そんなふうにして扱われていた教会が沢山あったのだそう。

これはグルジアだけでなく、ロシアでも他の中央アジアの国でも同じで、

ソ連解体後、 やっと修復に取り掛かることが出来たそうだ。

 そしてこの教会も黄色いペンキの部分だけを剥がしている最中で、

中には剥がすのに失敗した物もあるけど、

そのペンキの下には何十年も覆われていた美しい壁画が

次第に姿を現すのであった。

教会見学を終えて、ランチタイムになった。

いつ用意したのか分からないけど、もちろんそこにはウォッカがあって

みんな当たり前のように飲んでいた。

そこにいた数人の女の子たちも断るわけでもなく、ガンガン飲んでいて

この国の人達の酒豪っぷりがうかがえた。

私は夜にワインを沢山飲むから、遠慮しときますといって何とか逃れることが

できた。

そしてそれまでおとなしかった女の子たちも、すっかり酔っ払いになって

心を開いてくれた。

それはそれで嬉しかった。

その後も博物館や城跡を、この酔っ払い集団が訪ねるのでした。

黒づくめの集団ピクニック。全員酔っ払い

夕方になりこのまま帰るのかと思ったら、ティビリシで食事会があると言って

昨日のメンバーと合流し、大きなレストランに向かった。

宴会が始まりテーブルには収まりきらないぐらいの料理がギッシリ

並べられていて、そこにさらにどんどん新しい皿が運ばれてくる。

置く場所がないので、まだ料理がのっている皿にどんどん重ねられて

いくので皿をめくりながら食べなければならなかった。

これもグルジアスタイルらしい。

そして、あの自家製ワインも持ち込まれていた。




トーストマスターのミーシャが何度も乾杯の音頭をとり、

半端じゃなく飲むグルジア人のテンションがだんだんあがってきた頃

グルジアの民族音楽がかかり、とたんにみんな踊りだした。

音楽も踊りも素晴らしく独特で、そしてとても情熱的だった。

踊りと言うより、舞っているという感じ。


途中途中で誰かが雰囲気を変えようと思ってテクノとかかかるんだけど

そんなのより、またグルジア音楽に戻るとみんな湧き出るように踊り場に

集まり、何倍も盛り上がってた。

宴会がまだまだ続く中、私たちゴリ組だけレストランを後にする。

バンに乗り込み、その後は良く覚えてない。

ゴリに着いて、この日の夜はジョージという所帯持ちのおじさんの

家に泊まらせてもらった。

Gori day 2

翌朝8時にミーシャがやってきて、朝ごはんを食べに行こうと

外に連れ出された。

この朝ごはんはグルジア名物で、他では食べられないと言っていたので、

楽しみだった。

だけどそれにはウォッカが必要だといって、途中の酒屋に寄りウォッカを1瓶

買って食堂に出かけた。

朝からウォッカかよ・・・



看板も出していない食堂は住宅街の中にあった。

狭くて薄暗い店は、地元の人しか来れないようなところだ。

席に着くとさっそくそのグルジア名物の朝ごはんが運ばれてきた。

今でも思い出すだけで吐き気がするが、それは、塩とバターが入った

ホットミルクの中に、煮込まれた牛の臓腑が入っていて、それを

大量のニンニクのすりおろしで食べる「XAS」(ハス)という料理だった。

日本で言うとなんだろう。

まさか、胃に優しい雑炊枠?

どこだか分からない部分の肉がぶつ切りに乱雑に放り込まれているだけ。

これにパンを浸して、ウォッカと一緒にグイッと頂くわけです。

朝からいきなり罰ゲームみたいで。

もちろん、半分も食べられなかったけど。。。

それにしても、今日は会議があるのにミーシャはウォッカを三杯も飲み干していた。

会議なんかやるのには、ほろ酔いぐらいがちょうどいいらしい。

私も朝からウォッカなんて生まれて初めてだけど、郷に入れば郷に従えと

言うことで、朝の9時にはすっかり酔っ払いになってしまっていた。

もちろんマーカスも。

グルジアの男は前の日に酒を飲みすぎたら、決まってこのハスを食べに出かけ

ウォッカをグイッと飲んで、その日一日は寝てしまう。

それが二日酔の対処法だと言っていた。

本当だったら今日はスターリンミュージアムに行って、この街からは

出るはずだったけど、二人ともフラフラなので博物館どころではない。

とりあえずオフィスに戻り、ミーシャの豪華なディレクターズルームで

休ませてもらう。

大きな会議室では、ティビリシから会議のため50人ぐらいの人が集まり

なにやら真剣な話をしていた。

昼ごろになり酔いがさめた頃、ランチだよと言ってミーシャがやってきた。



例のキッチンで早くも酒を飲み始めてる人たちがいて、その輪に強制的に

加えられ、もう私も開き直って飲み始めた。

彼らはこのプロジェクトのリーダー的存在で、この会議も5回目ぐらいなので、

参加しなくても大丈夫と言って飲み始めちゃってる人達だった。

そして英語が話せる人がたくさんいた。

ここで飲んだのは「チャチャ」と言われる、ブドウからつくるアルコールで

75%もあるとんでもない代物である。

にもかかわらずワイン同様、ショットでだけど何杯も飲んでいた。

通常3杯まで飲むのが礼儀だそうだが、私はゲストだと言うことに加え

初めて招く日本人だと後からなんだかんだ理由をつけられ、結局6杯も

飲むことになってしまった。

こんな強い酒を、こんなスピードで飲むのは初めてだった。

だけどやはり、飲めてしまう。

最初はほろ酔い程度でメチャメチャ調子も良かったけど

後からガツンと喰らうはめになってしまった。

そしてまたミーシャの部屋に駆け込み、いつの間にか寝てしまい

いつの間にか夜になって、会議をしていた人たちは帰ってしまい

ミーシャがまた部屋に入ってきた。

「晩飯にするから、おいで」

言うまでもなく、それからもまた何度も何度もミーシャのトーストが始まり

15リットルのワインを空になるまで飲むのでした。

翌日はここで働く人たちと、今日来ていたティビリシのメンバーと合流して

遠足に出かけると言っていた。

スターリン博物館も土曜日で閉まっているとのことだったので、

私たちもこの遠足に参加させてもらうことになった。

Gori day 1

夜道をさまよい、人がいれば道を訪ねるが一向に家が見当たらない。

 マーカスが、街の外れの山の上にライトアップされている

古い教会を指さし、きっとそこには修道女がいるはずだから、

泊めてくれと訪ねてみようと、血迷ったことを言い出した。

しかし、行ったはいいけどいるはずもなく

しかも、車がひっくり返るんじゃないかと思うぐらいの強風で、

この旅史上最悪の寝床探しとなった。

結局山を降りたけど、イライラはピークに達し険悪ムード。

それでも家が見つからない事にはどうにもならなくて、道訪ねが続く中

ある男の人に

「ウチは今日ダメだけど、泊まるところで困ってるんだったらその辺の家のドア叩いて
泊めてといえば、誰か泊めてくれるよ」

と言われた。

そーなの???

そんな立ち話をしている時、通りかかった男の人が近寄って来て、事情を話し

車だけでも停めさせてくれと訪ねたら、

目の前の門付きの駐車場に案内してくれた。

駐車場の隅に車を停めさせてもらって一安心。

風も防げる所だったので、これでテントを開いてやっと休めると思ったら、

敷地内にある建物の中からおじさんがやってきて

「今日はここに泊まっていきなさい」と言われ

中へと案内された。

いい所で道に迷ったもんだなぁ。

キッチンに行くと、おじさんたちが食事をしていて

「おお友よ!良く来たね!」と歓迎され、

ピッチャーに入ったワインをグラスに注がれ、宴会が始まった。




あまりにもの状況の変化に戸惑ったけど、ワインも料理もメチャメチャ美味しくて

10分前までの寝床探しが、ウソみたいな出来事になってしまった。

なんなんだ、このギャップは!

そしてマーカスが少しでもロシア語が話せることにホントに感謝した。

このおじさんたちは「ワールドビジョン」という団体で働く人たちで、

この団体は難民救済や貧しい国の人たちをサポートするヘルププロジェクトとして

世界各国に支部がある。

グルジアではあの戦争による避難民をサポートしているそうだ。

この建物もその活動の拠点になるオフィスがある所だった。

そして、そこのディレクターのミハイル(ミーシャ)というおじさんが、

私たちを招きいれてくれたのである。

彼は登山家でもあり、ソ連時代に国の仕事でエベレストに登ったと言っていた。



それにしても、この人たち半端じゃなく飲む。



ワインをコップに入れて、水のようにガブガブ飲む。

ピッチャーがすぐ空っぽになると、20リットルぐらいあるポリタンクから

即補充されて、グラスが空になることがない。

ワインは自家製らしく、いくら飲んでも飲みきれないくらい作るらしい。

そして、5分置きぐらいにトーストが始まる。

これはグルジアの文化らしく、たいてい「トーストマスター」といわれる人が

頃合を見計らって話し始める。

この晩だけでも10回ぐらいは乾杯した。

「世界平和とグルジアの平和を祈って」

「ここに来た突然の訪問者の旅の成功を」

「ドイツ、日本、そしてグルジア人がこうして楽しく酒を飲んでいることに」

「我々をいつも見守る神様に」

「家で夫の帰りを待つ、美しい女房どもに」

などなど。

よくもまあ、ネタが尽きないもんだと関心したのもそのはず、

トーストマスターは誰にでも回ってくる可能性があり、

瞬時にいい文句を考えなければいけない。

他の人と同じ内容だったりすると乾杯が始まらず、

どうしてもオリジナルのものが要求される。

そうして何回も場数を踏み、スピーチのネタを増やしていくのだ。

私にも出番が回ってきて、日本語でペラペラっと何か言っただけなのに、

意味など分かるはずもなく、だけど拍手喝采なのであった。

とにかくまた予期せぬ出会いと、おじさんたちの優しさに

ホントに泣きそうになった。

たった1時間前のあの最悪な状況から考えるとなおさら、

そこは天国だった。

すっかり気分もよくなりグルジアワインで酔いしれたころ、

宴会はお開きに。

明日はその「ワールドビジョン」のティビリシで働く人たちがやってきて

会議を開くとのことだったので、10時ぐらいには解散となった。

そして大きな会議室にあるソファーベッドで眠らせてもらったのでした。


オフィスのアイドル犬、レイディーちゃん

2009/12/15

Georgia Gori


12日間滞在したアゼルバイジャンを出国して、グルジアに入国。

グルジアと言えば、去年あたりからロシアとの領土問題で戦争が始まりそう

だったところで、アメリカだか国連軍だかが軍事介入してあやうく大事にはなら

なかったところ。

そのくらいの前知識しかなく、もしかしたら危険な地域がまだあるかも

しれないので、2~3日ぐらいでササッと走りぬけ、とっととトルコに行って

しまおう。

それぐらいの予定しかなかった。

グルジアに入国し、例のごとく荷物検査が始まった。

ウズベキスタン同様、車の中の物を全部X線にかけると言い出したけど

係員が荷物の多さを見かねて、それだけは免れた。

だけど昨日満タンにした7個分のディーゼルタンクおよそ140リットルを、

この旅に出て初めて文句をつけられた。

安全上の理由で、大量すぎて持ち込めないと言われてしまった。

捨てて来いと言われたけど、陸路の国境で車の行き来も多いので

買ってくれる人を探させてくれと頼んだ。

許可が下り、グルジアには一旦入国したけどまた出国して

アゼル側のゲートまで戻り、隅っこで臨時ディーゼル屋をオープンさせたのである。

日本で買ったあの赤い灯油ポリタンクを車の前に並べていたら、

すぐに買い手がつき、さっそくガソリンスタンドの店員さながら、

でっかいトラックのタンクに給油してあげた。

損も得もしなかったけど、捨てることだけは免れてホントに助かった。

そんなこんなで国境超えにエライ時間がかかってしまい、

結局夜中の12時ごろ無事に再入国。

疲れ果てていたので、その辺の原っぱに車を泊めて就寝。



翌日、首都「TIBILIS」(ティビリシ)に向けて出発。

荷馬車が走り、のどかな田園風景が広がっている爽やかな朝。

「ああっっ!ブタだ!」

思わず指さして叫んでしまった。

そうです、ブタの登場です。

しかも野放しされてる野ブタです。

ロシア以来、中央アジア、アゼルバイジャンまではイスラム教国家なので

禁ブタだったけど、グルジアはキリスト教徒の国なので、

ここにきてようやく豚解禁の運びとなった。

しかも道のあちこちで、ブタのぶつ切りを路上販売している。

ぶつ切りと言っても、一切れ5キロぐらいありそうな大きな塊で、

それがさらし首のように置かれたブタの頭部と一緒に並べられたり、

つるされたりしている。

ナマ肉の路上販売。

なんだかワイルドな国だぞ。

程なくしてティビリシに到着。

と言っても、何をしていいのか分からないので。とりあえず旧市街と

言われるところを散歩して、久しぶりに教会に行ってみたりした。

これもロシア以来の教会だったけど、やっぱ教会って素敵。

偶像崇拝が禁じられているイスラム教のモスクに比べ、

教会はフレスコ画やイコンやらが色彩豊かに描かれ、

私にとっては、美術館に行くより教会巡りのほうがよっぽど面白い。

古く傾いているアパートがぎっしりと詰まった古い街並みはどこか

アジアチックだった。

そして街の所々に「ハチャプリ」というチーズ入りのパンを売る店があって、

これを食べながら歩く人がたくさんいた。

試しに食べてみたけどチーズがめちゃめちゃしょっぱかった。

日も暮れだしたので、街から出て寝るところを探しに出かける。

次の目的地は「GORI」というところ。

ここはあのソ連の独裁者、「スターリン」の誕生した街である。

どの道通るところだったし、スターリンミュージアムもあるとのことだったので

今日は街の手前のどこかで泊まって、明日ちょっと寄ってみようということになった。

幹線道路をひたすら走りゴリに向かう。

途中に同じ家が何百軒と建っている集落を見かける。

危険地域からの避難民の家だろう。

まだまだこの国では、軍事的緊張がある事を実感した。

それにしても風が強すぎて、なかなか寝床を見つけることが出来ない。

森らしきものも見当たらず、ずーっと走っていたらとうとうゴリに

到着してしまった。

街に入ればなおさら場所を探すのが困難になり、

ホテルなんて1泊40ドルもするし

やっと見つけた場所も、人が後から来てしまい、

仕方ないからロンプラに載っていた

「ホームステイ」が出来るという人の家に向かってみる。

このガイドブックも最新版のものが4年前のものなので、

この住所が存在するのか分からなかったけど、人に聞きながら家探しが始まった。

After Xinalic

次なる行き先は、ヒナリックから見て山の反対側の村「LAHIC」(ラヒジ)。

車で山を超えられないので、一旦BAKUの近くまで戻ってまた山道に入っていく。

アスファルトの幹線道路もあるんだけど、この旅では時間もたっぷりあるので

あえて山道や旧道を走ることが多い。

そのほうが思いがけない出会いや、ローカルな体験が出来ることが多いからだ。

だけど、いい道に行っておけば良かったと思うこともしばしば。

この日も、次の日も山道ともいえないガタガタの道をひたすら行くが

たどり着くことができなかった。

結局大きな道に出ることに決めて走っていたある日、通りかかった村の

おじさんに声を掛けられる。

お茶でもどうかということでお家にお邪魔して、そのまま親戚の家に連れて行かれ

ご飯をご馳走になって、結局一晩泊まることになった。

おじさんは来月に行われるこの村の村長選の候補者の一人で、(というか多分
 一人しかいないっぽかったけど・・・)

近所の子供たちに自作のポスターを壁に貼らせたりしていた。

人口100人ほどの小さな村は、インフラの整備がまだまだ充分じゃなくて、

おじさんが村長になったらまずは道路を整備して、街灯をつけたいと言っていた。

おじさんのお父さんもまた昔は村長さんだったらしいけど

高齢になり障害を持つ身になってしまい、早く死にたい、生きてるのが

つらいと、震えながらつぶやいていた。

翌日、親戚のおばさんがお土産に焼きたてのナンを持たせてくれて、

村を後にする。

このナンが史上最高に美味かった!!

程なく幹線道路に出て、LAHICに到着した。

ここは石造りの古い街並みが今でも残り、銅職人が沢山いる村である。

そして、村の入り口にあるゲストハウスには300年前の「ハマン」がある

とのことでやって来た。

ハマンとは日本の銭湯のようなもので、地元の人たちが今でも通うアラビック

スタイルの大衆浴場である。

早速ゲストハウスに行き、ハマン初体験!

石造りの建物の地下に入ってドアを開けると、モワーンの湯気がたちこめて

蛍光灯の青白い1本の光のみが、異様な雰囲気を作りだしている。

壁に沿って腰掛があり、足元にお湯の出口があるという単純な造りだったけど

なんといっても、このハマンの音響がすごい。

ちょっと一言喋るだけで、もうその言葉がDUBになってしまうぐらい良く響く。

「ハマンダブ」である。

鼻歌すらもダブになる。

マーカスが相当はまってずっと歌ってた。

極めつけは「ハマンスートラ」。

ハマンでお経をあげてみる。

「南無妙法蓮華経~」と、お題目や知ってる限りのお経を唱えてみたけど

どっかの坊さんの霊が乗り移ったんじゃないかってぐらい様になっていて

自分でもビックリした。

あと「ハマンホーミー」もすごかった。

「風呂エコー」なんて比じゃないです。


翌日は隣町までブラブラ散歩して、

次は古都と言われる「SEKI」(シェキ)という街に向かう。

雨が降っていて、街歩きをするような雰囲気ではなかったんだけど

バザールで久々に買い物をして、そのあとシムカードを買おうと思って

立ち寄った携帯屋さんでネットを使わせてもらう。

雨が酷いことになってきたので、ここのオーナーに泊まらせてくれないかと

頼んだら、最初はいいと言われたんだけど、仕事が10時までだからそれまで

待ってと言われ、車の中で3時間ぐらい時間をつぶしていた。

10時近くになり、彼に電話をかけたらやっぱりダメと言われてしまった。

早く言ってくれよ・・・

仕方ないから近くのレストランに駆け込んで安宿を紹介してもらう。

そして地元の人がよく利用する、民家の離れみたいな場所に宿をとる。

一泊600円ぐらい。

田舎のほうにくれば、宿代なんてこんなもんなんだ。

次の日は国境に向かって一直線。

アゼルバイジャン滞在期間10日間。

オイル産業国なだけあって、燃料が安かった。

しかも、どこにいっても値段が同じなのが有難い。

最後にタンクを満タンにして、灯油タンク7個分も全部満タンにして

次なる国「グルジア」にむかう。

Azerbaijan Xinalic

ヒナリックという村は、人口1000人ほどの小さな村で、

人々は山のひだにへばりつくように、石で出来た家を建で暮らしている。

家の作りも、喋る言葉も独特なものだと先日会ったミューラーさんが言っていたので

ちょっと遠回りだったけど、ひと目見るためにわざわざやって来たのだ。

遠目から見ると、あんなところにどうやったら人が住めるのかと思うけど

実際に登っていくと、細いけど車が通れる道もあるし、モスクやちょっとした博物館

まである。

目の前には4000m級のコーカサス山脈がドカンとそびえたち、風の谷とは

こういう所なんだと思った。



おじさんの家はその集落の一番上にあって、連絡を受けた息子が出迎えてくれた。

アゼルバイジャンまで来ると、ロシア語を話す人が少なくなると聞いていたんだけど

そうでもなくて、ここの23歳になる息子もロシア語を話した。

だけどもっと若い世代や、女の人は殆どが話せないと思っていいだろう。

彼意外ロシア語が話せる人が家にいなかったけど身振り手振りでなんとか

コミュニケーションをとる。

不意の客に戸惑いもせずもてなしてくれたお母さんは笑顔がメチャメチャかわいい
人で、その娘たちもとても可愛かった。

家は山に立つならではの作りで、階段や段差の多い不思議な作りだった。

村の様子も時代がいつからか止まってしまっているような、昔ながらの生活が今も

営まれていた。

不規則に建つ家の間の道はまるで迷路のようになっていて、陽があたる通りの角では、

おじいさんが数珠を手にしてうたた寝をしていた。

風の音しか聞こえなくて、タイムスリップしてきたような世界だった。

そして、家の中ではその辺にさりげなく敷いてある絨毯が素敵過ぎると思いきや、

お母さんは絨毯織りの職人さんで、ヒナリックはカーペットでも有名な村だと言ってい
た。

お母さんが何年か掛かりで織った絨毯の1つは、イギリスの何とか博物館に収められて

いるらしい。

居間の入り口にある古い絨毯には、思わず這いつくばって見とれてしまった。

どうしたらこんなことが手作業で出来るものか不思議でならない。

夕方過ぎにおじさんが帰ってきた。

毎日2時間かけて馬で出勤していると言っていた。
おじさんもまた戸惑うこともなく、良く来たねと快く迎え入れてくれて

一緒にご飯を食べて、テレビを見たりして夜を過ごした。

夕食に出てきた温かいケフィアのスープがメチャメチャ美味しかったなぁ。

それにしても家の電話が引っ切り無しに鳴っている。

私たちの車が家の前に停まってるもんだから、近所中で

「ありゃなんだ、あいつらは何者だ」と噂になっていたらしく、

 その確認の電話が次々とかかってきているのである。

それにいちいち対応する家族の人たちも大変そうで、ちょっと申し訳なかった。

この日も別室に寝床を用意してもらい、泊らせてもらった。

翌朝、何故かおじさんが家にある絨毯を全部持ってきて、

わたしの前に広げて見せてくれた。

昨日私が絨毯に見とれている姿を見たからだろう。

買うつもりなどなかったけど、見せられるとどれも素敵なものばかりで

欲しくなってくる。

値段は分からないけど、お母さんの仕事量や柄の細かさ、そしてその独特さから

言ってかなり値が張りそうなのは分かっていた。

だけど一生ものにするのには妥当な品物だと思ったので、値段が良ければ買うことも

考え始めていた。

おじさんが絨毯の値段の話を始めると、お母さんはなんともいえない表情を

浮かべた。

お母さんは外国人に売るために、この絨毯を織った訳ではないはずだ。

私はこれは買ってはいけないものだと瞬時に思ったので、話題を変えて外に

出かけましょうとおじさんを誘い出した。

それでもおじさんは、他にもいい絨毯を持ってる人がいるからと言って次々と

近所の家のドアを叩いた。

なんだか絨毯目当てで来た外国人風になってしまったので、

買う気は一切ない事を伝え、絨毯あさりを終わりにしてもらった。


おじさんからしてみれば、もちろん売れたら万々歳。

でも私がここで買ってしまったら、外国人に高く売れる事を覚え、

家中の絨毯を売りつくしてしまうだろう。

他の家もそうやって現金を得る事を覚え、村中の絨毯が現金に変わってしまう。

それでせいぜい買えるものといったら、衛星放送のアンテナだの洗濯機だの

きっと車購入の頭金になる程度だろう。

だけど、同時に伝統や文化が流出して、失ってしまうことに気づいていない。

そしてすっからかんになった時に、失ってしまったものの大事さ、

それに引き換えて得たものが、ただのカネやモノだったなんて

気付いた頃には、もう絨毯を織れる人がいなくなってることだって

あるかもしれない。

私はこれを、ウズベキスタンの「スザニ」売りのおばちゃんを見てすでに感じていた。

スザニも元々は母から子へ受け継がれる伝統の布だけど、古布ブームだのなんだの

言って、外国人がこれを買いあさり、古い物ほど高値で売買された。

マーケットが成立し拡大し、今では観光客に売ることがメインになってしまった。

政府は50年以上前のスザニの売買を、ようやく禁止にしたそうだ。

よくぞ気付いてくれたと思う。

ヒナリックのカーペットも今では織り手が少なくなってきて、

わずかな職人しか残っていないと言っていた。

そして、お母さんの小さい織り機も、どっかのバカな外国人が買っていって
しまったらしい。

売る方も悪いと思うけど。

一泊二日のヒナリック。

幸運にも、またもや民泊する機会を授かり、この谷に住む人々の暮らしぶりが

垣間見る事ができ、ラッキーだった。



そして、あの美しき絨毯の写真だけは取らせてもらい、お母さんに笑顔が戻った所で

風の谷を後にしたのでした。

Azerbaijan Hunter

BAKUを出発し、ひたすら北の方、コーカサス方面にむかう。

コーカサスといえばケフィア。

それぐらいしか知っていることがナイ。

途中のQUBA(クバ)という街につくころには、霧がものすごいことになってきた。

しかも雨まで降ってきたので、今日はチャンスがあれば誰かのうちに

泊めてもらおうと思ったんだけど、そう上手いこともいかず

結局、山を越えれば晴れているということだったので山に向かった。

話の通り、山に行くと満天の星空が広がっていた。

翌日、そのコーカサスマウンテンの合間にある「ヒナリック」という村に向かう。

登り下りの多い山道だったけど、景色が最高だった。

途中に山が崩れて橋が流されてしまった場所があって、そこにカメラクルーと

レポーターが待機していた。

壊れた橋の惨状をレポートしたいらしく、マーカスにもマイクとカメラが向けられた。

だけどその川は橋がなくても渡ろうと思えば渡れるので、そのままの事を

カタコトのロシア語で喋ると、「カットカット!」

渡れるとか言っちゃだめで、あくまで悲惨な現状をレポートしたいらしい。

気を取り直してもう一度。

今度は英語で喋ってくれと言われる。

「橋が流されてますが、これは早急に修復が必要ですよね」と、レポーター。

「いや、僕らの車オフロード車なので普通に渡れますよ、そんなに深くないし・・・
 乗用車だって渡れると思うよ・・・」

カットカット!

どうしても「橋が壊れて人々がその先に行けなくて困ってる」ことを伝えたいらしい。

最終的には、渡れないと言ってくれと頼まれるが

「ありもしない事が言えるか」と言ってさっさと車に乗り込み、

スイスイーっと川を渡った。

その後も何台かの車が一旦は立ち止まるけど、結局普通に渡れてしまっていて

テレビ局は一体何がしたかったんだろう?

この橋のことがどうやってニュースになったかは不明である。

その後村に向かう途中の水場で休んでいると、ハンターだというおじさんに声を

かけられ、この先の国立公園に家があるからおいでと言われたので

遊びに行ってみる。

国立公園内で狩りをすること自体どう考えてもおかしいことだし、さらにそこに

ハンター専用の別荘を建ててしまうあたり、どうもこのおじさんただ者では

なさそうだぞ。

豪華な別荘は、山間の広大な敷地にぽつんと立っていた。

日が落ちる頃、手ぶらのハンターたちが続々と戻ってきて

私達を招いてくれたおじさんもその中にいた。

後から話を聞くと思ったとおり、そのおじさんは何の会社か知らないけど

「ビジネス」をしているという大きな会社のボスで、

ムエタイでムキムキに鍛え上がったボディーガードまでついていた。
 
そして、何から何まで周りの人がボスの世話をしていた。

相当偉いっぽい人なんだろうけど、そんなに偉そうなオーラも出ていなくて

気さくなおじさんという感じ。

夜になってみんなに混じって夕食をいただき、私たちはこの日のゲストだということで、

一番あったかいフカフカベットの部屋で眠らせてもらった。

翌朝5時起きでハンターたちは狩りに出かけ、お昼前に大きな鹿を一頭引っさげて

帰ってきた。

もちろんおじさんが仕留めたらしいけど、事前に誰かが鹿のいる場所を確認し、

おじさんは引き金を引いただけ。ボスの獲物をセッティングするのに周りの人も

大忙し。

そうして連れ帰った獲物を舎弟たちがすぐさま解体し出し、ボスは全面ガラス張りの

ティーサロンで、ゆっくりとお茶を飲んでいた。

金持ちの道楽もいい所だ。

たとえ大金持ちでもこんな所で狩りとはけしからん!と

思いつつも、最後に死んだ鹿と一緒にみんなで記念写真を撮らされた。

別荘を後にして、昨日来るはずだったヒナリック村に向かう。

前日に道を訪ねた人の親戚がこの村に住んでいて、電話番号と名前は聞いておいた

ので、村に着いてさっそくマーカスが電話をかけてみる。

「○○さん(彼の親戚の名前)言った、あなたがここに住んでいる、家を見たい 
いいですか?」

こんな程度のロシア語でも会話が成立してしまい、

彼は今仕事中で夕方には戻るけど、家族が家にいるはずだからおいでと言われ、

さっそく山の中腹にある家に向かった。

小さな村なので、彼の家の場所なんて聞けば誰でも知っていて、その辺の子供を

車に乗せて家まで案内してもらった。

Today we´re in....

サラームアレイクム!
今、トルコの地中海沿いの街、イスケンデルンというところにいます。
地中海の中でこの時期一番暖かいところで、シリアとの国境付近。

またまた運良く楽しい村人たちに出会い、今回はほんとにウルルン
滞在記のような日々でした。。。楽しかったけど疲れた~。

その様子は後ほど。

とりあえず書き上げたやつをアップします。


これから先は
カッパドキア(トルコ)→アンカラ(トルコ)→イスタンブール→ブルガリア
セルビアで年越し→ルーマニア・・・

そのぐらいまでは決まっております。

イスタンブールはデモがあったりしているみたいなので、様子をみて
滞在するかしないか決めようと話してます。

トルコもまたイスラム文化圏なので、クリスマスらしき雰囲気が
一切なく、年末ムードもないといったところです。

ではでは、ごきげんよう

2009/12/04

Now we are in...

1週間前ぐらいに、トルコに到着しました。
今はアンタクヤという街にいます。

ブログがずいぶんおくれてますが、今から暖かい
地中海沿いのビーチいって、何日か滞在する予定なので
ゆっくり時間があれば書き上げたいところです。

それとギリシャ行きが中止になり、これから先は
ヨーロッパに散らばってるマーカスの友達やら
親戚やらを訪ねながら1ヶ月ぐらいかけてドイツに
戻る予定です。意外と早い到着になりそう。

とにかくゴール目前でございます。

ではでは、また電波がある時まで。。。。

Azerbaijan 2

BAKUに到着し、路肩にクルマを停めて青年を待つが、一向に来る気配がない。



結局1時間以上待って、電話をしたら5分でやってきた。

何かあったのかな?


夜も8時を周り、疲れていたので、彼のお家に行ってお茶でも頂いて

寝かせてもらおうと思ってたんだけど、今から街を案内すると言い出した。



せっかくなので、じゃあ。。。という事になり、一緒に来た友達のピカピカのパジェロに乗り

夜のBAKUを案内してもらった。

街中には、これと言って見所なんかないんだけど、

BAKU出身の彼らにとっては、まさにオイルマネーでここまで洗練された

大都会になったことこそが自慢。

 「ここがメトロの駅」「ここが劇場」「ここが映画館」と、はっきり言ってどうでもいい所に

連れて行かれ、最後にとっておきの「夜景」が見えるという丘に連れて行かれた。

カスピ海沿いにあるBAKUは湾岸の大都会で、確かにそのネオンとかは

綺麗だけど、ニューヨークの夜景が100万ドルなら、東京のそれは50万ドルぐらいで、

だとすれば、ここBAKUの夜景は10万ぐらいかなーってぐらい、残念ながら中途半端で

「見たら泣く」といわれる程では決してなかった。

ここがクライマックスと思いきや、他にもまだ連れ回したい場所があるみたいで。

だけど10時近くになっていたので、お家に行って休みましょうと提案する。

ではその前にちょっとケバブ屋に行ってみようとか、他に見たいものは無いとか

色々聞いてくる。

なんか、おかしいぞ。。。

結局数分後に分かったのは、泊めてくれるはずの彼のお家のお母さんにダメと言われた

ということだった。

朝からそれは分かっていたらしいけど、ヘンな見栄を張って断れなかったらしい。

結局私たちが来ちゃったもんだから、他に泊めてくれる友達やらを探すのに時間が

掛かっていて、その時間稼ぎの夜観光だったのだ。

すっかり意気消沈気味で、目も合わせられなくなってしまった彼だったけど、

その好意は受け取るからどうか気にしないでと言って夜のBAKUを後にした。

「仕方ないよね、そういうこともあるさ」

寝床探しが始まったときは、どこかその辺で車を停めてあったかいコーヒーでも飲んで

ゆっくり休もうという感じの空気だったんだけど、

電灯のない夜道をいくら彷徨っても場所が見つからず、

やっと見つけたところには人がやって来てここはダメだと言われ、

しかもまたもや夜の渋滞にはまったりして、気分は最悪になり本音がポロリ。

「あの、くそボンボンめがぁぁぁ」

ごめん、気が立ち過ぎた。

だけどね、あやつの見栄のために巻き込まれたあげく、こんなで、

腹立つったらなかった。




結局深夜2時近くになり、ようやく見つけた場所は泥沼の山の中腹。

言うまでもなく、無言で就寝。

翌日、気分を持ち直してまたBAKUへ向かう。

携帯のシムカードを買って、とっとと街から去る予定だった。

マーカスが携帯屋さんだと思って入った店が、実は車のアクセサリーを

扱うお店だったんだけど、英語が話せるオーナがいたので携帯やネット関係の

事を色々相談する。

その間、車を泊めていた場所が野良電波を拾える所だったので、

久々に家族とスカイプをする。

毎度の事ながら、車の中から日本にいる家族とタダで話せるなんて、

その仕組みは未だに良くわからないけど、とにかくスゴイなぁーって思う。

夕方になって車屋のオフィスも閉まり、私たちも用事を済まし出発して5分ぐらい

たったその時、マーカスの電話が鳴った。

さっきの車屋さんからで、食事のお誘いだった。

元いた場所に戻って、彼の車に乗り換えて、住まいのある近くの街へ向かう。

車屋さんは仕事を終え家の近くまで帰ったんだけど、

「なんで俺は彼らを誘わなかったんだろう」

と、不意に思ってしまったらしく、わざわざ戻って電話をかけてきてくれたのだ。

街の中心部から車で20分ぐらいの集合住宅に彼ら一家は住んでいた。

その道の途中には結婚式場が何十件とあった。

アゼルバイジャンの結婚式は、とにかく派手に壮大に挙げるらしく、

どれだけ沢山の人が呼べるかが重要らしい。

200人も呼べない式は結婚式じゃないと言っていた。

そして、でっかい会場がいくらあっても足りないらしい。

今郊外に家を建てている最中という彼は、仮の住まいでお嫁さんの実家に

住んでいると言っていた。

そのお嫁さんの弟は客室乗務員で英語がペラペラだった。

テーブルにはすでにご馳走が用意されていて、お風呂も用意してくれて、

お酒まで買いに出かけてくれたりと、これまた至れり尽くせりだった。


そして有難いことに泊まらせて頂き、昨日のあの怒りはすっかりどこかへと

飛んで行ってしまった。

翌日はBAKUを出発し、「ヒナリック」という北部の山の方に行ってみることにする。

Azerbaijan 1

11月6日

6カ国目!!

カスピ海を渡ってアゼルバイジャンの「BAKU」にやってきた。

18時間で着くはずが、結局その倍近くかかってようやく到着。

船を下りて、入管に着くや否や「ヤクザ!!」と叫ばれる。

うん、そうそうヤクザの国ニッポンから来たのだよと

疲れていたけど、笑ってみせる。

続いて、入国スタンプを押すおじさんにも「おお、ヤクザ、ヤクザ!」と握手を求められ、

続々と部屋に入ってくる人にも「ヤクザ、ハラキリ!ナイス」となぜか褒められる。

もうこの時点で私の髪の毛が軽く縮れてきてるんじゃないかってくらい、ヤクザコールが

半端じゃなかった。

例えばドイツ人を見かけた瞬間に「OH!ビール、ソーセージ、ヒトラー」とかいうのと

同じぐらい、何の脈絡もなくただ言いたいだけの人たちなのである。

ちなみにマーカスはドイツ人だと言うと、「ヒトラーカプート」と言われます。

そんな感じで、ここアゼルバイジャンの人が抱く日本人の印象は

「ヤクザがスシを食いながらフジヤマに登り、頂上でカミカゼと叫びながらハラをキル」

それで間違いないと思う。

そして通関においては、どこまでが正規の料金かわからない、「車両運賃」をはらい

沢山の手続きを経て、ようやく解放され街に出ることができた。

最終的に人間2人と車1台カスピ海を渡るのに、500ドルぐらいかかった。

さてさて、密かに物価が高いとの噂を聞いてやって来た「BAKU」というこの街ですが

それもそのはず、今もときめくオイルブームタウン。

カスピ海やその周辺のいたるところで、オイルの掘削クレーンみたいなのがせっせと

稼働している。

町並みはヨーロッパみたいで殆どの建物がライトアップされていて、

ブランド店が立ち並び、それに伴い食事代も中央アジアの時から比べて3〜5倍。

長期旅行者にはヨーロッパ並みに、キツイところになりそう。

とりあえず、この国に入るのに必要な招待状を手配してくれたミューラーさんという

ドイツ人のおじさんに電話をして、車の修理が出来る所を案内してもらう。

このおじさんは、あのイルクーツにいた時に会ったステファンという青年のお父さんで

アゼルバイジャンの国立公園の管理責任者でもある。

ここで色々つながった事もほんとに色々ラッキーだった。

ちなみにステファンも今、中央アジアの国をクルマで旅行中。

連れて行ってもらったのは、トヨタの修理工場。

壊れてしまった後輪のショックアブサーバーを取替えてもらいに行ったんだけど

1件目ではパーツが品切れで、2件目で運良くGET。

この旅に来て初めての修理工場。

パンクなんかはマーカスがチョチョイと直してしまうけど

さすがに、今回は部品の取替えだったのもあり、なんだか大事になってしまった。

だけど、さすがトヨタの正規修理工場。

古い車の部品だけどちゃんとありました。

同じく後輪のスプリングも直してもらい、さらに点検してもらい洗車までしてもらい

いっぱいありすぎなので省略するけど、ここで働く英語が話せる青年が、

実家は広いし寝る所なんていくらでもあるから、是非泊まりに来てくださいと

初日から有難いお誘いを受けた。

トヨタホスピタリティー。

いや、トヨタっていうかアゼルバイジャンの人、いい人じゃん!!

修理が終わり、100kmほど離れたミューラさんが仕切る国立公園に行く。

街中の渋滞を抜けるのに1時間以上かかってしまった。

ビッグシティーで渋滞にハマるなんて。

東京を思い出した。

到着したころにはすっかり夜になっていて、この公園の関係者用の宿泊施設に

泊まらせてもらう。

翌日、ミューラーさんと合流。

BAKUでちょっと話しただけなので、どんな人だか分からなかったんだけど、

ミューラーさんの車に乗せてもらい、サファリパーク形式で、公園の案内をしてくれた。

個人のガイドを付けているみたいに、充実の説明っぷり。

しかも声も話し方も森本レオにそっくりで、でもこのソックリさ加減を誰とも共有できなくて

歯がゆいったらなかった。

そして彼の目は、子供が何かに夢中になって説明するときに見せるのと

少しも変わらなかった。


ミューラーさんは65万ヘクタールという広大な荒地を、一から整備して国立公園にまで

してしまったというレジェンドである。

荒地を整えるのも、そこに携わるこの国の人を教育するのも 

相当大変な仕事だったらしい。

そして、何千種類もの鳥や動物たちを保護してきたらしい。

特にガゼルの保護に力を入れていて、今でこそ近くで見られるガゼルも

最初のころは人間の姿を見ただけで隠れてしまっていたらしい。

そのガゼルが今は数メートルの距離に近寄っても逃げることなく、

むしろ「ついておいでよ!」と尻尾をふって合図をする。

「奇跡だ!」と、子供のような笑顔で言っていた。

そして、そのガゼルを主人公にしたおとぎ話の絵本を娘に書いているところだそうだ。

この地球にどれだけ自然を残すことが出来て、

そこに自分がどれだけ関わることができるのか。



そういうことをずっと考えて生きてきたんだろうな。

色々話を聞かせてもらったけど、自分の小ささなんかどうでも良くて、

ただただミューラーさんの行動力と器のデカさに圧倒された。


そして私達は翌日、トヨタで会ったあの青年が

BAKUを案内しその後泊めてくれるというので、渋滞の道を3時間かけて逆戻りして

また街へ向かうことになった。


中央アジアの旅を終えて


3ヶ月ぐらいかけて中央アジアを周り終わったところだけど、

やはり何度も言うように印象に残ったのは「人」です。

この周った4カ国は総じてイスラムの国家だけど、それぞれの国の人や

習慣の異なりを観察するのが、とても面白かった。


イスラムと言ったら、礼拝。

祈りの回数でいったらカザフスタンがダントツに祈りまくっていて、

タジキスタンなんかでは殆ど見なかった。

回数の問題ではなくこれは習慣の違いだと思うけど

少ないからといって、信仰心が薄いというわけではない。

シーア派だとかスンニ派とか、流派の違いもあるのかな?

私が一番感銘をうけたのが、タジキスタンのワハン渓谷に住む「イスマイリー」

という流派の人たち。

彼らは難しいことを言わず、へんな押し付けや主張がなく、

とにかく物事に対して寛大だ。

やさしくて、とても自然で、他の宗教に対しても寛容で、とにかく「平和」な

人たち。

彼らの暮らしは決して豊かではないと人々は言うし、彼らもそれを自負している。

だけど豊かさの基準を、私が生活する文明社会と 比べること自体が

間違っているのではないかな。

お金や物とかとは全く関係ない所に存在する、真の豊かさを見せつけられた気分。

そして彼ら自身も「それ」がいかに大切なことなのか、分かっているんだと思う。

慈愛に満ちる人々とはまさに、ここに居る人達のことを指すんだな。



こんな旅をしているので、「クルマはいくらした」「給料はいくらもらってるのか」とか

良く聞かれるんだけど、タジキスタンで会った人をはじめ、その「豊かさ」を

携え生きてる人たちは、そんなことには一切興味がない。

金銭的物質的なものだけで、幸せの値など計らないからだ。

逆にそういうことを聞く人たちの殆どは、自分たちの生活と私らみたいな、いわゆる

「先進国」から来た人間の「金銭的なレベル」だけを比べはじめ、勝手に惨めになって

勝手にイジワルになって、金をせがんだりする。

酒飲みと警官に多い。


ちなみに東南アジア諸国のように、いわゆる「物乞い」はあまりに見かけない。

タジキスタンのあるお宅にお邪魔していた時、貧乏で病気になって

食べるものもないと言うおじいさんが

「お金をください」と訪ねてきた。

この家のおばあさんは迷うことなく財布からお金を出し、

このおじいさんに渡していた。

私は親戚か近所の人なのかと思ったけど、見ず知らずの人だと後から知った。

ボロボロになって路上の物乞いになる前に、周りの人に助けてもらえる事を知っている。

また、周りの人も助けるのが当たり前なのである。

そして、弱者に喜捨することもイスラム教徒の習慣なんだと言っていた。

モスクの前に貧しい人が多いのは、そこにいれば必ずお金がもらえると分かって

いるかららしい。


そんな感じで、どんなに貧乏な暮らしをしていても

「うちは超貧乏だから笑っちゃうでしょ!」って

そんなこと笑い飛ばしてしまう明るさがある。

旦那の給料が2万円なんて、本当は笑えるはずがないのに、

全然深刻じゃない。

だけど、この人達はただただ笑顔で迎えてくれて、今ある物で客人を最大級に

もてなすことを、実に心得ている。

もてなしの達人だ。

そしてどこの家に行っても、家の中がとても綺麗だった。

もちろん招いてくれた人たちから、遠まわしにでもお金を要求されたことなど

一度もない。




遊牧民は遠方から来た人をいつでも招き、外の世界の情報を得ていたという。

中央アジアがこんなにもホスピタリティに富むのは、やはり彼らが遊牧民の血を

今も受け継ぐ民族だからなんだと思った。



ここで出合った人たちが、まさに「生きる世界遺産」

どんな名高い世界遺産を訪ねることよりも、私にとってこの「出会い」というものが

この旅において、とても価値のある出来事になった。

特にタジキスタンのワハン渓谷に住む人々。

何気ない1日、人との出会い。

一生忘れないぐらい、心に焼き付きました。



それと、老人がものすごく尊敬されるのも中央アジアの特徴でしょう。

タジキスタンとウズベキスタンの国境あたりから、立派なヒゲをはやし

「トッピ」という民族帽をかぶって、長いコートを着ている老人を良く見かける。

彼らは「アクサカル(白ヒゲという意味)」と呼ばれる人たちで見るからに

「賢者」の風格がある。

そしてシャキっとしていてカッコイイ。

ダンディーとかそういうレベルじゃなくて、人間としての気高さを感じる。


「老人は労わりましょう」的な社会ではもちろんあるんだけど、

それよりも、年寄りは心強く尊敬される対象で、存在感も影響力も大きい。

だから住んでいる地域での大事な決定事などは、彼らに委ねられるという。

沖縄の社会も、こんな感じなんじゃなかったっけ?

道端で遊んでいる小さな子供たちも、後々に立派な白ヒゲじいさんに

なるのかと思うと、不思議な感じがした。

そんな先の時代まで、こういう伝統が無くなっていなければいいな。


女性についてはやはりイスラム国家なので、滅多に家の外を出られなかったりとか

服装や習慣にも何かと規制が多いのは確か。

こちらからしてみたら男尊女卑とも取れるけど、

あちらからしたら、「女性を守るため」の戒律らしい。

 
 そしてここでも、男は外で働き女は家事育児に専念するという考えは一般的だけど

欧米人の多くは

「そんなの女性差別だ」「男女は平等にあるべき」

と考えるのが一般的なので、色んなところでこの「イスラム国家の生活習慣」

を叩きあげるのだそう。


そんなんだからテレビで見る映像は、目だけ出してあとは全身黒スカーフで身を隠し、

外では悲しそうに歩かなくてはいけないとか、

夫にはひれ伏してまるで隠れながら生活しているとか、

そういうネガティブな場面を取り上げることが多い。

しかし、実際お宅にお邪魔してみると、まあどこの世界にもいる強い母ちゃんが

多いいこと。

金銭面や生活環境が厳しい中、立派に子供を育てて、家畜も食物も自分の手で育てて

家の中を切り盛りしている女が弱いはずなんかないのだ。

もっとも私が見たのは中央アジアのイスラム文化の一部であって、

戒律に厳しい所はいくらでもあるんだろうけど。



そして、驚いたのはお酒を飲む人が多いということ。

イスラム教といえば、禁酒、禁豚じゃなかったっけ?

こういうのも実際見てみないと分からないものです。

適度にゆるーいイスラム国家になったのも、多分ロシアのせいなんじゃないか思う。

社会主義体制の下、どこまで宗教を禁じられていたのかは分からないけど、

元々は敬虔イスラム国家だったんだ思う。

あるおじさんが

「ソ連の共和国になってロシア人と共に兵役に就き、学んだことは酒を飲むことだ」

と言っていた。

キルギスにはタチの悪い酒飲みが多かった印象が残っている。

やはりここにも酒で人生を台無しになってる人は、もちろんいるのである。





来るまでは国名すら知らなかった中央アジアの国々だけど、

それまで白地図だったところにだんだんと色がついてくるような感じで

ほんとに面白かった。

一体私はそれまでこの中央アジアの部分に何があると思っていたんだろう?

ロシアかな?

たしかにロシアの一部だったけど、解けたところ、それぞれの国に

こんなに面白いところがあるなんて、思っても見なかった。

世界はとてつもなくデカイよ。

だけど人と触れ合うことで、未知だった世界がぐっと身近になるのも確かだと思った。

色んな人がいて、色んな生き方があって、色んな宗教観を肌身で感じる。

生き方にも、無限の選択があるということを知れたのが、何よりもの収獲。


まだまだ書けることがいっぱいあるけど、まとめるのが超苦手なので

この辺にしときます。

観光面では

もうちょっと知識があったり、もうちょっと興味があって下調べでも出来ていたら

もっともっと面白い旅になっていたとも思います。

多分帰ったら調べることが沢山あって、知りたい事もありすぎるんだけど

それも又いいお土産になったと思います。


そして、また必ず行きたいところは「タジキスタン」。

あそこに行って、人生観が少し変わりました。

特にワハン回廊に暮らす人々に、もう一度会ってみたい。

そして何年先か分からないけど、川を渡った向こう側のアフガニスタンも

平和になっていれば、そこもまた訪ねてみたい所です。