2009/11/23

中央アジア旅のまとめ(2)

【FOOD】

中央アジアの食べ物。

「素材」のクオリティーはすごく高いと思う。

だけど調理の仕方にあまり工夫が見られず、よく言えばものすごーく素朴

悪く言えば、一辺倒で素材が生きていないし、料理の種類もそれほど多いと

いうわけではないかな。

庶民の台所はもっぱらバザールである。

バザールに行けばどんな食生活をしているのか分かるし、値段なども

見比べて、庶民の生活レベルがどれぐらいなのか分かってくる。

そして食材の値段がわかれば外食してぼったくられそうになった時に戦える!

肉なんて殆どオーガニックなんじゃないかな。

それは遊牧民や放牧をしている人の数を考えれば明らかである。

食べる肉の量も半端ではない。

キルギスなんかでは、庭の一角の柵の中に羊がギュウギュウに入れられていて

まるで家庭菜園ならぬ、家庭羊園。

庭先でハーブを摘んでくる感覚で、庭先から羊を連れてきてバラして食べるのだ。


そして野菜が美味しい。

大振りだけどちゃんと野菜の味がする。

その中でもトマトがメチャメチャおいしい。

国産が当たり前。

国産というか地元産。

種類は少ないが、土地で取れたものが余すことなく、土地の人たちによって消費される。

日本みたく、自分たちの国で作れないものも、作れるものも何でもかんでも

輸入しまくって、国産の品物が一番高いなんてアホなことはありえない。


中央アジアといえば、メロン、スイカ、ぶどう。(知らなかったけど。。。)

メチャメチャ甘くて美味しい果物が激安で買える。

買えるというかその辺でもらえる。

だけどスイカなんか10kぐらいあるから、二人で二日かけても食べきれず

最後には犬にあげたりしてた。

ぶどうもタジキスタンなどでは玄関先で作ってる人が多く、季節になると

頭上の柵にいっぱいのぶどうがぶら下がっていた。

料理については、あまり褒められたものではないというのが正直なところ。

とにかく肉とそのアブラの量ったら半端じゃない。

あるお家で頂いた「ショルポ」という、羊肉と野菜のスープは冷めたら半分ぐらいが

油になって固まってしまった。

だけど、この油分こそ最高に美味しいものとされるらしい。

マグロでいったらトロの部分、そんなところかな。

だから、目上の人や客などには決まって油の部分が配られるのだ。

そして、野菜といったら決まってキュウリとトマトを塩で和えたサラダ。

どこの家に行っても、これだけは必ずと言っていいほど出てきた。

ベースとなる食べ物は、殆どがホームメイド。

うどんも打つし、パンも焼くし、マントゥという餃子のようなものも皮からつくる。

特にナンと呼ばれる平たくて丸いパンは主食で、インドのナンとは違うんだけど

キルギスの南の方からは家庭用タンドールなるものが現れ、各家庭で1日置き

ぐらいにこのナンが焼かれる。

朝昼晩殆どナンなので、大量に焼かなければならない。

だけどいつでも焼きたてのパンの匂いが漂うお家っていいよなぁ。。。

カザフスタンやキルギスの北のほうでは、家庭で焼く習慣があまりないので

店に行けば買えるんだけど、家庭で焼くエリアに入ると、店先にナンがあることが

滅多に無いので困ることがしばしばあった。

見つけたとしても、買いだめできないのがつらいところ。

1日も経つと硬くなりまずくなってしまうからだ。

その硬くなったナンを無駄にしないで食べるのが、タジキスタンの「シールチャイ」。

例の塩バターミルクティーに浮かべて食べれば、硬いナンも捨てられずに済むのです。

タンドールはまさにインドのタンドリーと同じようなものだけど、

そこではパンしか焼かない。

タジキスタンでは一家に一釜あるのが当たり前だし、都市部の団地みたいなところでも

各棟に2台ぐらいの共同釜が外に設置され、主婦が朝からせっせとナンを焼いていた。

都会に住んでもナンだけは釜で焼くなんて素敵だな。

「井戸端会議」で知られる日本の昔の長屋にあった井戸のように、

ここでは「釜端」で、おばちゃんたちのおしゃべりタイムが繰り広げられているのだ。

ちなみにこの団地に住むグリャという子は、もうすぐ釜デビューすると

言っていた。

自分たちの食事については、95%は自炊。

いやもっとかな。。。

外食は滅多にしない。

やはりお肉すぎるのと、脂がすごいのでホントにたまにで充分。

外で食べたもので美味しいと思ったものあまりがないのも残念。

強いて言えば、デゥジャンベの食堂で食べたラグマン。

トマトベースのうどんにヨーグルトとパクチーをかけて頂きます。

その土地独特のスパイスやハーブや米などは、是非とも食べたいので

買ってみて、自分なりにアレンジして料理を楽しんでます。

あとは人の家で食べさせてもらった物のレシピを聞いて真似して作ったり、

なんだかんだで飽きずにやっております。

やっぱ家庭料理はおいしいな。

そして、「もぉダメだー」という時に、日本から持参したコシヒカリを炊いて

日本食を頂きます。

ロシアで米までもが盗まれ、今となっては残っていた5キロの米をどのタイミングで

食べたらいいのか・・・

もったいなくて手もつけられなくなって1ヶ月以上が経っています。

根菜類は常に常備しておいて、その他の野菜はバザールで買ったり、

道端で売ってるおばちゃんたちの所で買う。

これもクルマ旅ならではの楽しみなんだけど

土地によって売られる物が変わってくるのを見るのが面白い。

道端では何でも売っている。

これはロシアからずーっとそうなんだけど、野菜や果物はもちろん、

蜂蜜、チーズ、スメタナ、魚、肉、ナッツ類、パン、キノコなどなど

その土地の名産品や旬のものが何でも手に入る。

卵なんかは工場産の物は黄身も白身かってぐらいとにかく全部白いし、

火が通らないようなものばかりなので、なるべく道端で買うようにしている。

道端で売ってるおばちゃんちの卵は平飼いなので、おいしい卵が買えるのだ。

バザールの卵屋さんでは、家獲れの卵は店先に並ばない。

格が違うから恐れ多くて他の卵となんか一緒にできない。

だけど多くの卵屋さんが隠し卵を持っていて、家獲れのものは無いかと聞くと

良くぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、よろこんで譲ってくれる。

これを知ってからは、いい卵が苦労せず買えるようになってきた!

卵を食べる習慣があまりないエリアでは、店先でも売ってる事があまりなく

なかなか手に入りにくいので、まずはそのエリアの集落を周ってみて、

その辺でなんかつついてるニワトリを見付けたら、すかさず飼い主を見つける

ところから始まる。

ニワトリのコケコッコが聞こえる方に、あっちだこっちだ言いながら

車を走らせるという、卵探しに1日を費やす事もあった。

特にブリヤートが住む地域。(これはロシアでの話か)

家に行って卵を売ってくださいと頼むと、大抵の人は意外な訪問客にびっくりする。

少し高いけど、それだけ払う価値がある黄金の卵。

この旅で、おいしい卵を食べることに目覚めてしまった。

卵と同じく絞りたてのミルクやバターなども、牛を飼っているお家を訪ねて

容器を持っていけば大抵は譲ってくれる。

スーパーも便利で何でも揃うけど、こういう買い物の仕方のほうが好きだな。

子供の頃を思い出す。

豆腐は豆腐屋さんで買ってたし、コーヒー豆もコーヒー屋さんで

挽いてもらってたり。。。

そんな風景が今でも当たり前に見られます。

そんな感じの食生活です。

確実に良いものを食べているんだけど、やっぱ日本食が恋しい!!


 今一番食べたいものは豆腐。

ドイツに帰っても、豆腐なんて滅多にないのでやっぱ自家製しかないなぁと

考えてる所です。

中央アジア旅のまとめ(1)

アゼルバイジャンに着く前に。。。

中央アジアの旅が終わりました。

それと旅に出て半年が経ちました。あっという間だったなぁ。

これからちょと旅生活のことと、中央アジアの総まとめ的なことをしたいと思います。

今となってはこの生活が普通になってしまったけど、やはり最初は大変だったなぁ。。。

【LIFE】

家を持たない暮らしなんて、ちょっと面白そうそうじゃんなんて思っていたけど、

実際やってみると大変なことだらけ。

もちろん家と同じ状況なんて望めない。

だけどやはり、これがあったらあれがあったらと、無いものについて考える。

これは自分を苦しめるものでしかなく、時間の無駄でもあった。

今あるもので、どうやっていこうかと頭を切り替えられるようになって、

初めてこの生活が楽しいと感じるようになってきた感じがする。

この旅は、

旅の日常というよりは、生活の延長線上に旅があるという感覚。

定住していないというだけで、日々の営みは家にいてする事と、

さほど変わりはない。

勝手は少々違うけど。


朝起きてご飯を食べる。

寒い日は火を起こしてお湯を沸かし、食べ終わったら食器を洗う。

夕食は日が暮れる前に準備始める。

マーカスが薪を集めに出かけ、私は食事の準備にとりかかる。

食器を洗って拭いて寝る。

晴れた日には洗濯をして布団を干す。

移動しながらなので、後回しにできないことが多い。

旅における家事の勝手の違い。

例えば冷蔵庫や洗濯機は便利なものだなんて考えたことがなかった。

日本に住んでいれば、あるのが当たり前だから。

だけど今の生活にはないから、どうやって食品を保存するのか

どうやって洗濯するのか、そんなことを考えなくちゃいけない。

電気が無かった時代の人たちは、どうやって生活していたのかを考える。

電気があっても冷蔵庫や洗濯機は、この辺の村人にとっては今でもまさに

三種の神器。

持っていない人のほうが多い。

そういう人たちの暮らしを見させてもらって、そしてアイディアが生まれる。

例えば洗濯。

コインランドリーなんていうものに、最初から期待していなかったから

最初の頃は、どうやったら「洗濯機」のように素早く効率良く洗えるか。

それが課題だった。

そこからしか発想できないので、でっかいバケツを買いものすごく丁寧に洗剤で

洗って、大量に水を使い、洗濯に1日は軽く費やしていた。

もちろん手洗いなので超重労働。

寒い日なんかは火を起こす事から始めなくちゃならない。

洗濯するのが、苦痛以外の何物でもなくなる。

そこでもっと楽な方法を考える。

そういえば昔の人もそうだけど、この中央アジアの国の人も都市部を除けば

洗濯機を持っている人の方が少ない。

どうしてるかというと答えは簡単。

洗濯する回数が少ないだけだ。

だから服が汚くて当たり前。

そこで初めて思う。

そりゃそうだと。

洗濯機が無いのに、洗濯機があるのと同じぐらいのペースで洗濯して

服も取り替えるという考え自体が、ナンセンスなのである。

これがバックパックの旅なら、持てる荷物の量も限られてるので極力

服を少なくして、洗濯は宿泊先でするとか想像できる。


だけど車の中にへたにスペースがあるもんだから、色々と欲張ってしまい

その結果、持ってきている服や物の多さ、そしてその無駄さに気付く。

結局便利だとか、これはあったほうがいいという物ほど、実は無くても

いい物なんだということが分かった。

あと「いざとなったら使う」という、その「いざ」は滅多に来ないし、そんなの

なくても生きて行ける。

今では洗濯は綺麗な川や湖があったらやるし、なければやらない。

川での洗濯については「ランニングウォッシング」という、ものすごい洗濯方法を

開発した。

それは、バケツの中に服と水を入れて、その中を走るという名前そのもの

なんだけど、これが手洗いよりも良く落ちる。

水が綺麗になるまで、何度も何度も水をとりかえて走り続けるのだ。

「もみ洗い」「擦り洗い」ならぬ、「走り洗い」。

30cm四方ぐらいの小さいスペースでダッシュするのは最初はものすごく

難しかったけど、今となってはお手の物。

運動にもなって一石二鳥。

だけどこれは夏季限定。

今はもう出来ないのでこれからどうしようか考え中。

風呂についても同様。

ロシアにいる時は、バニャがあるのでいつでも好きな時に入れたけど

もうこれは仕方がない。

だってないんだもん!

だからあんまり考えないことにする。

ふつうの暮らしをすれば、風呂なんていつでも入れるんだから。

ちなみに、頭を洗うのに必要な水は5リットルぐらいで充分。

晴れて暖かい日は、すかさずお湯を沸かして頭を洗います。

ヤカンがシャワー代わり。ソーラーシャワーなるものを持っているけど

結局一度も使っていない。

ヤカンで充分。

そんな感じの生活なんだけど、普通の暮らしに戻っても走り洗いをしようとは

思わないし、風呂だってちゃんと入りますよ。

期間限定と分かっているから、こういうことが楽しめるんだと思う。
 
だけど、世の中こういう生活をしている人の方が実は多いのではないかと思う。

いかに自分が恵まれた環境で暮らしているのかがホントに分かった。

洗濯機がない家の主婦の家事は大変だ。

タジキスタンで訪ねた家の奥さんは、家族の洗濯を二日掛かりでしていたっけ。

結論。

洗濯機は偉大なり。

あれ、なんか違う?

2に続 く

2009/11/17

ただいま。。。

アゼルバイジャンにいます。
携帯屋さんでネットを使わせてもらってます。
タジキスタンの写真をアップしたので見てね!!

明日は、グルジアの国境まで行く予定です。
寒いです!!

Aktau to Baku

奇跡の再会@アクタウ

そろそろ港町が見えてきたころ、マーカスのお父さんから電話があったので
クルマを道端に停めて話していた。
5分ぐらいたってから、突然私たちの前にクルマを停めてこっちに向かってくる
男がいた。
近づいてきて思わず叫んでしまった。
 「おおおおおー」
彼は、2ヶ月前にここからおよそ4000km東に行ったカザフスタンの路上で
たまたま会ったアクタウ在住のバイカーで、スズキの350ccの小さいモトクロスで
旅をしている最中だった。
たった少しの間話しただけなんだけど、後々にアクタウに行くことは
分かっていたので、彼の電話番号だけは聞いておいた。
そしてアクタウについたら電話してみようと言っていた矢先に彼が突然
目の前に現れたのである。
これもまた偶然に!
これにはお互いびっくりして、マーカスと彼はまるで昔からの友のように
抱き合って再会を喜んでいた。

彼はその日、ちょっと遠くに住む友達のところに用事があって、今日中には
帰ってこれないかも知れないと言っていたんだけど、私たちの乗るフェリーが
翌日出発することを知ると、早々に用事を済ませわざわざ戻ってきてくれて
ホテルの手配までしてくれた。
ホテルなんてもちろんこの旅に来て泊まるのは初めてだった。
しかも出来たてっぽい、超綺麗なベイサイドホテル。
オーナーが知り合いとの事で、タダで泊まらせてくれた。
もう何から何まで至れり尽くせりだった。
もうちょっと時間があればいろいろゆっくり話しもできたけど、
何せ全く予想外に船が明日出るなんていうもんだから、
結局数時間だけの再会になってしまった。
この御恩は絶対に忘れまい。

フェリーにおいても、私たちは超ラッキーだった。
アクタウから、カスピ海を渡ってアゼルバイジャンのバクーまで行くフェリー。
距離はおよそ400km。
このフェリーの運行状況が実に不安定で、週に1回しか運航しないと言う人もいれば
10日待ったという人もいたり、とにかく情報が確実なものではないので、
「来たら乗ろう、来るまで待とう」と
全く期待してなかったんだけど、運良くちょうど次の日に乗れることになった。
待合所ですでに3日待ち続けたおばさんがいた事を考えると、私たちはホント
ラッキーだった。
ホテルを出て、港に向かったのが午前11時。
いろんな手続きをして待つこと5時間。
船にクルマを乗せて、自分らも乗船してなんだかんだで出発したのが翌日の
午前3時半だった。


キャビンは最悪だった。
ベットもボロボロで、なのにわざとカバーが掛かっていなくて
カバーを借りるのにお金を払うというシステム。
食事なんか出る訳が無い。
それに、空き部屋がたくさんあるのに、わざと4人部屋にパンパンに人を詰め込んで、
別のキャビンに移りたいというと、そこでまた料金が発生する。

それを思うと日本からウラジオストクまでのルーシー号はなんて素敵な
船だったかと思う。
まあ、それでも一人100ドル。
クルマが50ドルと思ってたより全然安くて、お値段相当と言ったところかな。
結局着いたのが翌々日の朝。
18時間で着くと言っていたのに、3日かかったし!

そして7カ国目、アゼルバイジャンに近づいてきた!

2009/11/09

Kazakhstan again

10月最終日。

明日からカザフスタンに入国できるので、ゆっくりと時間をつぶしながら
距離を進め、国境付近までやって来た。
これまでの道およそ500kmは、砂漠のようなステップの大地で
とにかく何にもなかった。
強いて言えば、これまで牛や羊やヤギを飼ってる人が殆どだったけど
ウズベキスタンの西の方からカザフの国境にかけては、ラクダをよく
目にするようになってきたぐらい。
これは実にこの景色と雰囲気にマッチしていて、霧深い日など
遠くに霞んで見える何かに目を凝らして、例えばそこに牛がいたら
「なんだ、君か。牛くんかぁ。」となるところを、ラクダがいたもんなら
「ああ、ここがシルクロードだったんだぁ」と、自分がシルクロードを
辿って旅をした事を思い出させてくれる。

中央アジアの旅が終わろうとしていた。

カザフスタンの国境超え。
ここからロシアに行く車がごった返していて、手続きと待ち時間で
5時間もかかってしまった。
ここでもまた「おしん、ヤマガタカンスケ」の嵐。
みんなが言うもんだから、調子にのってあのおしんの有名な場面
「がぁちぁぁぁゃん、おしぃぃぃーん」そうあれね、ピン子とおしんの別れのシーン。
あれをちょっとやってみたんだけど、みんなに???な顔をされて
ちょっと恥ずかしかった。
おしんといったらコレだろうが!!
って、これぐらいしか私、知らないんだけどね。

心配していたウズベキスタンの滞在登録については一切触れられることは
なかった。
こんなあやふやな制度は旅人を混乱させるばかりだから、廃止にすればいいのに。
まあ、とにかく無事に二度目のカザフスタンに入国。
ここには、アゼルバイジャンに行くためにカスピ海を渡らなきゃいけないので
やってきた。
長く滞在する予定はない。

この日は雨も降って疲れ果てていて、テントを開いて食事もする力も
なかったので、寝床を探しに街はずれにポツンとある家を突撃訪問。
見ず知らずの外国人、しかも暗くて顔も見えないのにいきなり泊めてください
なんて、きっとビックリするだろうと思ったけど、そりゃそうだ。
しかもカタコトのロシア語だからこんな感じ
「キョウ ネムイ サムイ アシタ シュッパツスル、ネムル バショ 
アリマスカ ゴメンナサイ」
おじさんは困った顔をしている。
当たり前である。
だけど結局離れの納屋みたいなところに案内してくれて、そこで
眠ることが出来た。
おじさんは殆ど半切れで、気まずいったらなかった。
こんなことを思いつく夫よ。
前から気付いてたけど、私はこんな図太い神経してる人を見るのは、
生まれて初めてだ。


翌朝出発する時には、目も合わせてくれなかったけど
「またおいで」と言ってくれたそうだ。



それにしても天気が悪い。
目的地アクタウまでの500キロは、穴ぼこだらけのグチャグチャ泥道。
しかも、後輪のショックアブサーバーがこわれているので飛ぶわ揺れるわで
もう最悪。
二日かけてなんとかダートを脱出しようやくカスピ海の沿岸の町アクタウに到着した。
そしてそこでもまた奇跡の再会が!!!

After Alal lake

交差点での奇跡の再開!!

デゥジャンべでウズベキスタンのビザ待ちをしていた時に大使館で会った
 

この夫婦は、ベンツのキャンピングカーで旅をしている60歳前のおじさんとおばさんだ。



ドイツ人の旦那(クラウス)とフランス人の奥さん(ジョエル)は、ここには書ききれ
 

ないぐらいとにかく面白ネタ満載の人たちなんだけど、2人の出会いからして最高におもしろい。
 

30年前にインドまで車で行って旅をしていたクラウスが、道端でヒッチハイクを
 

していたジョエルを拾ったのが出会い。
 

その後結婚して子供が出来るまでの間、また車でアフリカに行ったりと、とにかく
 

旅好きの2人。
 

今回の旅は何十年かぶりの車旅で、フランスを出て半年になると言っていた。
 

ジョエルは歯医者さんで、クラウスは歯科技工士。

そんなもんだから四六時中 一緒に過ごしてきたけど、60歳間近にして

仕事をやめて全部売り払い、2人でもう一度旅する人生を選択したという。

キャンピングカーはこれが3台目で、内装は全て手作り。


でっかい運送用のベンツのバンの中に、キッチンも収納棚もトイレもベッドも

なんでもある。
 

これこそ動く一軒家で、その居心地の良さったらない。
 

この車でモンゴルにも行ったし、あの足元最悪なワハンの方まで行ったというから
驚きだ。

フランス人のおばちゃんになんて一度も会ったことがないけど、ジョエルは
 

私の中のフランス女性のイメージを一新させるほど斬新なおばちゃんだった。
 

ザ・おばちゃんというのは、世界共通でああいう感じなんだ。
 

そしてその夫婦間のやり取りも、どこにでもある父ちゃん母ちゃんの小芝居
 

みたいで、またまた斬新だった。

2人のキャラがまた素晴らしく独特で、チャキチャキと歯切れのいい元気な
 

ジョエルに対して、なんかでっかい柱時計みたく、ぼわーんとしているクラウス。
 

2人の色んな話を聞いて退屈しなかったけど、フランス人の英語がこれまた 独特で、

フランス語みたく流れるように喋るもんだからなかなか聞き取るのに 大変で、

しまいには頭がもじゃもじゃになってしまった。
 

よく喋るんだコレが。

 


旅なんて、何歳になっても出来るんだ。
 

2人を見ていて本当にそう思った。

もちろん彼らも子供が小さい間は、こんな クルマ旅は出来なかったと言ってたけど

歳重ね、全てを捨てて旅に生きる潔さ。

なんかもう「普通に生きれないよ」と、開き直っちゃているところがいい。
 

この後彼らは、ウクライナ、ポーランド経由でヨーロッパに入りフランスに帰るけど
 

4月になったら今度はまたクルマで南米に行く計画を立てていて
 

人生遊ぶのに大忙し。

私は別に今後は旅に生きようとか全然思わないけど、今回こういう旅をしてみて
 

色んな国の色んな人の人生を見ることはホントに楽しくて、ものすごく刺激的な
 

ことだとつくづく感じる。
 

実際に自分の目で見て、肌で感じること。

特に私は、何かの体験でしか自分を変えて行くことは出来ないと思っているし、

体験しないと真の満足感は得られない。

本とか人の話だけじゃ、いまいちガツンとこない。
 

頭より、感性働かせるより、とにかく見つけて行って見るのみ。

みたいなね・・・
 

そうなると、やっぱまた刺激を求めてこんな旅をしたくなる日がくるんだろうな。
 

そう遠くない未来に?
 

わかんないけどマーカスはもう次のクルマ旅をひっそり目論んでいるらしく、
 

子供が出来て1歳ぐらいになれば余裕でしょなんてのん気なことを言っております。
 

その前に、ドイツに、いやいやその前にカザフスタンに戻らなくちゃ!

そして砂漠のキャンプを終え、夫妻と別れ一路カスピ海を目指し、カザフスタンへの
 

ロングランが始まったのでした。

Alal lake

アラル海に行く前に、ディーゼルを給油できる所を探すのが超大変だった。

この国は天然資源のガスをたくさんもっていて、当然ガスの値段が安く

ガスを燃料にして走っている車がものすごく多い。

車の上にプロパンガスのタンクみたいなのをむき出しに4つぐらい積んで

運転している車をよく見かける。

燃費もいいらしくガソリン車ならガス車へと改造ができるので、

切り替える人も多いらしい。

だからガソリンスタンドはガラガラで、その代わりガススタンドに長蛇の列がいつも

出来ている。

ディーゼルなんて、トラックぐらいにしか使われないほど需要が低いので

手に入れるのも一苦労。

何件も聞いて周ったけど、見事になくて結局トラックの運転手に聞いたら

ディーゼルを持ってる男を知ってるとのことで、さっそく連れてってもらった。

そこはスタンドではなく普通の家で、客がきたら男が誰かに電話をかけて、

何分後かに違う男がディーゼルを運んでくるというシステムだった。

後で聞いたら、どうやら線路を伝って運ばれてくるオイルタンクから盗んで

きているらしく、そんなもんだから店も持たず闇スタンドみたいな事をやって

いるというわけだ。

値段もそこそこ安いけど、元手がタダならいい商売なんだろう。

まあ出所はどうでも良いとして、とにかく久しぶりに予備のタンクも全部

満タンにできて一安心。

これでアラル海に行けることになった。

途中で歩いていたおじさんに道を訪ね、ついでに3km先の家まで乗せていって

あげて、ついでにお家におじゃまする。

またまた晩飯かってくらい沢山の料理が運ばれてきてあったかい部屋で

おなかいっぱいになり、幸せなひと時を過ごした。

その日は朝から雪がちらついていて、テントも凍ったこともあったので

今日ここに泊まれたらどんなにいいだろと密かに願ったが、

おじさんの「泊まっていけば」は、残念ながら出なかった。

おじさんはなかなかしゃべらないシャイな人で、見ず知らずの外国人を泊める

タイプではなかった。

そんな空気が漂っていたので早々においとまする。

それにしても寒かったー。

近くで焚き火ができそうなところを探して、またまた凍える夜を過ごす。

翌朝は快晴。

黄色く色づいた木々の向こうに真っ青な空が広がって

綺麗な秋晴れという感じだった。

天気もすっかり回復してところで、さっそくアラル海に向けて出発。

アラル海。

かつては世界有数の巨大な湖だったけど、そこから運河をひっぱり

農業用水などに使用しすぎているため、今では半分ぐらいの大きさになってしまった。

なんとかしないと、もうすぐ消滅してしまう湖なのである。

その昔沿岸だった町から、今のアラル海の沿岸までは150kmもの距離があるらしい。

そしてその干上がった湖は今では砂漠のようになってしまい、そこに座礁した

船の墓場といわれる所がある。

錆付いた船の残骸がポツポツと並んでいたぐらいで、わざわざ行くまでの

所ではなかったかな。

人気の無い寂しいところだった。

とにかくウズベキスタンはもう後は出るだけになってしまい、何かない限り

滞在する理由がない。

だけどビザの関係で、次の国カザフスタンに入れるまで4日もあり

とにかく時間を持て余していた。

そしてある日偶然にも、タジキスタンのデゥジャンベで一緒に過ごした

車旅夫婦に遭遇する。

遠くから見ると町のようですが、これは墓地です

After khiva

「最近人んちにいってないね。。。」

そういえば地元の人との絡みがめっきり少なくなってきている。 

ヒヴァを出て世界遺産を一通り見終わってやっぱ思ったのは、この旅が街から街へ 

ただ移動するだけのものだったら、多分すぐ飽きてしまっていただろうなということ。
 

やっぱその街と街、村と村なんでもいいけどその間のどこかにぶらっと行ってみて、
 

そしてそういう所で土地の人と触れ合うことが、なんだかこの旅の目的みたいに
 

なってきていることに最近気付いた。
 

目的というか、そういう機会がないと、なんだかつまらないのである。

車で来ることは確かに大変だけど、車一つあるだけで出来ることや見られる
 

ことがはるかに増える。
 

バックパックの旅も嫌いではない。

だけど今回車で来てみて、今までとは全然違う種類の旅をしている事が分かった。

そして意外に一番いいんじゃないかと思ったのは、ヒッチハイクのバックパッカー。


金はかからないし、知らない人と仲良くなれるし、地元の人と触れ合えるし
 

大抵誰かが家に泊めてくれるみたいだし。

公共の交通機関で移動するよりも時間も場所も自分で決められてかなり
面白い旅になると思う。

やろうとは思わないけど。


何人かヒッチハイクで旅してる人に会ったけど、やっぱ慣れるとやっぱ病みつきに
 

なっちゃうって。


話がとんでしまった。。。

まあ、そんな話をしていて、今日は面白い人に会えたらいいなぁと話していた矢先に
 

ディーゼルを入れられるスタンドはないかと道を訪ねたおじさんの家に早速に招かれた。
 

この辺では標準サイズなんだろうけど、私なんかからしてみたら屋敷かってぐらいの
 

でっかい家に住んでいた。
 

さっそくおじゃまして席につくなり、まるで用意してあったかのようにいろんな食べ物が
 

次々と運ばれてきて、すぐにお腹いっぱいになってしまった。

りんごが庭先の倉庫にものすごくたくさんあったので「りんごを作ってるんですね」
 

と聞いたら「うん、りんごもあるし野菜もつくってるし米も作ってるよ、それに牛も
 

羊も鶏もいるよ」と、完全自給自足の一家だった。

2人の息子は都心にそれぞれ出稼ぎと勉強に出ていて、その息子の嫁と2人の
 

孫娘、奥さんと自分の娘、ここにもまた女に囲まれ暮らしている優しいおじさんがいた。

そいえばおじさんに「日本といえば、おしんだよね」と言われびっくりした。

日本と言えばサムライ、ハラキリ、ヤクザが定番なのに、この「おしん」には


意表をつかれた。
 

ウズベキスタンでテレビ放送されていたらしく、おじさんはおしんのファンらしい。
 

「舞台の山形はお母さんの生まれ故郷です」と言ったら
 

「ヤマガタカンスケ、ヤマガタカンスケ!」と、嬉しそうに連呼していた。
 

ヤマガタカンスケってなんだっけ?

夕方になってそろそろおいとましようと思ったら、おじさんは結婚式に行かなきゃ
 

いけないけど泊まって行けばと言われたので、お言葉に甘えることに。
 

夕食はプロフを作るというので、畑に材料を取りに行く。
 

お母さんはその辺にいた鶏をつかまえて、裏の方に持って行った。
 

帰ってきたら、首がなくなっていてそのあと見事な手さばきで羽をむしり
 

あっという間に鳥丸一匹が食べられるようになっていた。
 

ちなみにこの国では多分、宗教に関係していると思うんだけど
 

女性は動物を殺してはいけないことになっていて、鳥を絞めたのは
 

おじさんだと言っていた。
 

他の国はどうなのか気になるところらしく、日本ではどうだドイツではどうだと
 

聞かれ、私はできないけど女の人でも絞めますと言ったら相当ビックリしていた。

 


夕飯のお手伝い。
 

どこの国でもそうだけど、人がどんなふうに料理をするのか見るのは実に楽しい。
 


この日作ったのは、にんじんと鶏肉と塩のみというシンプルなプロフだった。
 

まな板を一切使わないので包丁の使い方が独特で、見よう見まねでやってみるけど
 

なかなかうまいことできなかった。

包丁も使えないかわいそうな子と思われただろうな。

 


じっくり時間をかけて炊き上げたプロフは、出来立てなだけに最高に美味しかった。

夜はあったかーい部屋で眠らせてもらい、朝ごはんにこれまた美味しいスープを 頂く。


何故かディーゼルもタダでくれて、他にもお土産をどっさり持たせてくれて
 

久々のお宅訪問は終わったのでした。
泊まった部屋。綺麗だったな。
           
「やっぱこういうの、だよね~」

帰り際2人の声が揃う。


次はどんな所でどんな人に出会うか楽しみだし、これが何時何処でなのか


分からないから 面白いのです。

次の行き先はムイナックという町。かつてアラル海の沿岸の町があったところ。
 

アラル海なんて全然興味がないんだけど、この旅の始まりもそうだったように
 

知らないとこでも、行けば行ったで面白いことがあるもんなんです。
 

だから最近は「つまんねいから、行くのやめようよ」とか言わないようになってきた。
 

行くのやめてじゃあどこに行くと言われても、やっぱり当てなど最初からないし・・・
 

そういえば、そうやって半年経ってここまで来ちゃったんだもんな~
 

あとどれだけ続くんだろうとか思うけど、終わりに近づいている事は確か。
 

すっかり忘れてたけど、やっぱ本格的に冬になってくると車の旅は厳しいかもねと
 

最近話し合っていることろ。どうなるか分からないけど、とりあえずもうすぐ

ヨーロッパです。

2009/11/01

Kiva

翌日「ヒヴァ」に到着。

ここは高さ8mの壁の囲まれた「城壁の町」で、その中に今も人々が生活している。

土色で出来た建物の中に、ターコイズブルーのタイルで装飾された塔が一際目立つ。

この城壁の中に宮殿やモスクなどがたくさんあって、町自体が博物館のような所。
外観からして、これは3つ目にしてようやく「アタリ」の場所と思いちょっとワクワクしてきた。

さっそくその町の中で宿をとる。観光地のど真ん中でちょっと高いとのかと思ったら10ドル

しかしなくて、しかもその10ドルも私たちの切実な財布事情を説明して一人8ドルに

してもらう。



町散策に出かける。

マルカンド、ブハラよりも観光客が多い。

中でもフランス人が圧倒的に多く、団体から個人旅行までとにかくフランス人だらけ

だった。

どこのミュージアムやモスクに入っても、団体旅行者のガイドが大声のフランス語で

隅から隅まで解説し、その人たちに土産売りのおばちゃんたちが集るという始末。





夕方の散歩を終え、街外れにご飯を食べに行って帰ってくると、城壁がライトアップされていた。

中に入ると所々が赤や緑や紫の光で、中途半端に照らされている。

イルミネーションとも呼べないショボいネオンが、せっかくの夜の城壁の町を台無しに
している。

日本の住宅地でたまに見かける、一軒家のクリスマスイルミネーション見せ合いっこ

のほうがよっぽど気合はいってると思う。

さすがに一晩中は点いてないだろうと思い、夜中もう一回散歩に出かけようとおもったけど

12時ごろでもまだ光っていたので、諦めてふて寝した。

極めつけは翌日、日曜だったので昨日の倍ぐらい人がわんさかいる。

その中に結婚のお披露目会みたいなので、西洋スタイルの新郎新婦が町を練り歩き、

他にも3組ぐらいが至る所でゾロゾロと行進を続け、そして信じられないことに、

その団体に逆行するように走っているマラソンランナー。

そう、これは昨日見たフランス人の集団。

今日はみんなお揃いのTシャツを着て、この世界遺産の地でわざわざマラソン

大会を開いていたのだ!!

その数ざっと7、80人。

しかも殆どが60歳を超えているじじばばである。

しかもフランス・ウズベキスタンの友好行事とかでもなく、フランス人のみが

笑顔も見せずマジ顔で、一心不乱に走っているのだ。

どうしてここでマラソン大会をしなくちゃいけないのっ!!

どうして、自分たちの住んでいる街の町内会かなんかで、

隣町まで走ってみようぐらいで収められなかったの!

しかも結婚式のパーティーピーポーが、大音量のテクノで騒いでるなかに

このじじばばが迎え入れられて一緒に踊っている。

もうみんなで踊れば怖くないといった感じで、次々と老人が輪に混じり

意味不明のステップでガンガンに踊りまくっているのだ。

これを許可するこの世界遺産の管理者も管理者だし、こんなことしようと考えた

フランス人のどっかのジイさんだか 、バアさんも相当なもんだ。

楽しいのは本人たちだけ。

楽しむのは大いにけっこう。

歳とっても腰が砕けるまで踊ってけっこう。

場所を考えろって話。

町の外とかなら、まだわかる。

だけど先にも書いたように、ここは町全体が博物館のようなところ。

建物から出ても裏路地に入っても、その目に入るもの自体が展示物のようなものなのだ。

「世界遺産で走りましょうよ」「そうそましょうそうしましょう」

そんなこと言いながら来ちゃったんでしょう。

聞こえはいいかもしれない。

でも他にも人が居る事を忘れてる。

わざわざここを目的にやってきてる人もいるし、ここに来るのが夢だった人だって
いるのだ。

静かに町を見学したい人だっている。

もちろんこういうのを、一緒になって楽しんじゃう人だっているかもしれない。

だけど私は、出来ればこんな日に来たくなかった。

汗だくのマラソンランナーを見に来たんじゃないんだから。

まったくもって、観光客の恥さらしである。

当然周りの見物者は冷ややかな目で見ているし、

地元の人たちの呆れ顔ったらなかった。

きっと来年もどっか他の世界遺産で走るんだろうね。

誰でもいいから、止めてくれーーーー!





唯一楽しかったのは、シルクカーペットのワークショップ。

サマルカンドの時もそうだったけど、なんだか私絨毯が好きみたい。

と言うわけでウズベキスタンの世界遺産、3箇所。
 

別にわたし、観光地をけなしたり、短所のみを誇張してこき下ろすような、

そんなイジワルな、めんどくさい事はしません。

あくまで見たものと、その個人的な感想です。

もっと予備知識があって、中央アジアやイスラムの歴史や、建築物とか美術に

興味がある人にとっては、どれを見ても鼻息フンフンで絶叫することでしょう。

そうでなくても、綺麗な建物や古いモスクなど見て周って悠久の都に思いを馳せる、

そんなゆっくりとした旅をしたい人にはいい所だと思います。

実際日本人の女子がけっこういたし、母と子で旅行してる人もちらほら見かけました。

でもほら、私たち旅の趣旨がちがうもんでね。。。

サバイバルハネムーンに、世界遺産はちょっと上品すぎたのかな。

私らが場違いだったってことか・・・!!




                   <ヒヴァ まとわりつきすぎの猫>

Samarkand to Bukoro

この旅に出るまで、私はサマルカンドなんてどこにあるかも世界遺産だということも
知らなかった。
イスラム文化やシルクロードに興味があったわけでもない。
そもそもこの旅のルート自体にもまったく興味がなかった。
中央アジアも「どこそれ?」って感じだったし「歩き方」とか一応買ってみたけど、
それでもそんなに行きたい所も見当たらなかった。

そんな感じでここサマルカンドに来て見て、シンボルともいえる3つのデカイ神学校
はドカンと立派に存在感があるものだったけど、それ以外は感激するものではなかったな。
しかもそれぞれの建物で入場料も払わなきゃいけないくて、その額も
ウズベキスタン人意外、つまり外国人は3~5倍の金額を払うことになる。
そういうのもなんかねぇ。
強いて言うなら、「シャーヒズィンダ廟群」と言う所がよかったかな。
綺麗だった。



他にも見どころ的な建築物はいっぱいあったけど、どれも同じ様に見えてきちゃって
全部見たところで多分記憶に残らないと思ったので、途中からは楽器を売ってるお兄さんの店に行ったりして時間をつぶした。
カーペットを織ってるお姉さんの隣りに座って見学してる時が一番楽しかったな。
このカーペットはシルク糸の手織りで、畳一枚分のものが1000ドルぐらいする。
しかも2人係りで8ヶ月も織り続けてやっと完成するらしい。
1000ドルでも安いと思うけどな。
今はなんかまだ早すぎると思って買わなかったけど、いつかもっともっと大人になったら
ドカンと現金で大人買いをしたい。
イランかどっかに行って、一生物のペルシャ絨毯を探す旅というのもいいなぁ。


翌々日に訪ねたブハラという街も世界遺産で、でっかい建物や綺麗なモスクがある青の都から
打って変わって、土色の街という感じ。
昔のバザールやらキャラバンサライなどの建物が残っていて静かで
雰囲気はいんだけど、どこもかしこもお土産ショップとホテルがあって残念。
これが今も地元の人のバザールがあって、野菜やスパイスとか売られて
ホコリだらけの街だったらどんなに面白いかと思った。
そんなことしたら建物や周りの環境を維持できないのかもしれないけど、
なんか綺麗すぎて重みがない。
 結局2時間ぐらいぶらぶらして、この街を後にした。




この旅に出て、それまで興味がなかった中央アジアの魅力にすっかり
取り付かれてしまったので、そんな国の世界遺産なんてもう凄いんじゃないかと
けっこう期待していたのにちょっと残念な気持ちになる。

そして3つ目の世界遺産、「ヒヴァ」へ向かう途中の道は、砂漠にちょっと毛が生えたような
景色がずーっと広がり、どこまでもまっすぐな道が延々と続く。
通ってる道はきれいなアスファルトで舗装されてしまってるけど、それを除けば
「シルクロード」な風景。
黄色い砂が舞う強風の中、その辺でロバに乗っかってるおっさんや、ただ歩いている
仕事帰りのおばちゃん連中でさえ、「悠久のシルクロード」的フィルターが、
ササっと被さると全く絵になってしまうから不思議だ。
その日はその辺の砂漠に泊まることにする。
カラッカラに乾燥した木が沢山あったので、久々に火を起こして自己流プロフを作る。
満点の星空の下、砂漠のキャンプファイヤーはなかなか素晴らしかった。

Urgut & Samarkand

ウルグットのバザール
翌日復活しかけたマーカスをつれてバザールにむかう。
ちょっと汚くてゴチャゴチャのバザールだけど、古いなりの味が
染み込んでいる素敵なバザール。

ここへ来た目的はウズベキスタン伝統の刺繍が施された布
「スザニ」を買うため。
本で見ただけで、絶対に私好みだとわかっていたので
迷わず向かう。
中には古くて貴重なものもあるし、なにしろ手刺繍ならものすごい仕事の量
なので、けっこう値が張ると思ったらそうでもなかった。
バザールの一角のスザニ売り場に入った瞬間から、戦いは始まる。
まずは3人ぐらいに速攻で囲まれて、「マダム、これを見て、この美しい布」と、
歩いてる方向をさえぎりながら、目の前いっぱいに布を広げて付いて来る。
みんなそれぞれに店があって商品も並べられてるけど、座ってるだけじゃ売れない
のでこうやって出てきて、客を囲んでしまうのだ。


最終的には10人ぐらいに囲まれ、おばちゃん同士で私の取り合いになり
ケンカがはじまる。
私はもう腕をつかまれたり、かばんをひっぱられたりでもうめちゃくちゃ。
ゆっくり店を見て周って、呉服屋さんのように1枚1枚布を広げてホントに気に入ったものを買おうと思ったけど、もう不可能だとわかった。
海外での買い付け仕事は ずっとやって来ていたので、慣れてるはずなんだけど
囲まれて歩けない買い物なんて初めてだ。
だんだん頭が痛くなってくる。

あまりにもしつこく、うるさいので「うっせんだよぅ」と言うと、
みんな声をそろえて「ウッセンダヨ~」とか、
「ちょっと待って待って」と言うと「マテマテマテ」と繰り返す。
腹立たしいやら笑っちゃうやらだったけど、なんとか良いものを見つけて
値下交渉でまた戦って、こういうやり取りを3枚分やって買い物終了。
けっこう大きいスザニを10ドル前後で買えて大満足。
すっかり疲れてしまったけど、これもバザールの面白いところかな。
休憩がてらに食堂でシャシュリークを食べた。
他の国のとちがってミンチ肉つまり「つくね」の串焼きみたいなので、
メチャメチャ美味しい。
そうして一通り食材を買い揃えて、一路サマルカンドへ向かう。




サマルカンドは世界遺産にもなってるところで、イスラムの神学校やらモスクやら
古い建物が点在しているところ。
その建物には鮮やかなターコイズブルーのタイルがよく使われていて、
「青の都」とも呼ばれている。
夕日ともに見て周りたかったので、その日はそのへんにあったB&Bで宿をとる。

宿は民家を改造した素敵なつくりで、広い中庭もあってなかなか良いところ。
そして早速日本人の女の子にあった。
夕方観光がてら散歩に出かけ、夜になって宿に戻ると中庭のテラスに宿泊客のほとんどが
集まっておしゃべりをしている
普通にバックパックの旅とかをしていれば、こういう光景は日常なんだろうけど
私達の場合、こういう場所に出向かない限り、他の旅人との出会いも
滅多にない。

そのうち日本人が合計5人に増え、日本語が話せる外人までいて、久々に酒を飲み
楽しい話をいっぱいした。
でも周りにこんな人がいっぱいいることが滅多に無いので、人の話を聞いて頭に
入れたり、自分で何かを喋るのに働かせる脳みそが次第パンパンになってしまい
破裂する前に早めに寝た。

たった数時間で人疲れというやつです。

でも、楽しかったな。

翌日は米ドルをGETしに銀行に向かう。 
いつもは手数料無料のクレジットカードで現金を下ろして生活してるんだけど
この国ATMが全然なくて、結局高い手数料を払って銀行でお金をおろす羽目に。
普段はどこでも下ろせるので余計な現金は持たないことにしていて
この国に入る時も、持っていたのがたったの160ドルだった。
税関の人が、この人たちバカじゃないのという目で見たのは正しかった。

結局ちょっとだけ下ろして、バザールの両替場にむかう。
ここに案内してくれたのは、わたしらが泊まっているB&Bに3ヶ月も滞在している
神戸から来ていたおじいさん。
サマルカンドに移住を考えてるらしく、とりあえず住めるだけ今は住んでるらしい。
当然地元の人のように周辺に詳しく、バザールでもちょっと知れた存在ぽかった。
両替所といっても闇両替で、銀行のレートが詐欺かってぐらい悪いので
一般の人がけっこう自由にドルの両替をしてもいいようになってるみたい。

ウズベキスタンの通貨をGETし、ちょこっと観光しただけなんだけど、
人の多さとかに疲れてしまったのでもう一日休んで行くことにした。
宿は昨日と打って変わって人が少なくなっていた。
殆どの日本人は半年近く陸路で移動している、長期のバックパッカーだ。
翌朝2人の日本人カップルがやってきて、合計で7人に。
日本人専用宿みたいになっていた。


                    <サマルカンドのB&B>

Tashkent to Samarkand

ウズベキスタンの結婚式
翌朝おじさんが時間通りの6時に迎えにきた。
ホントに6時に来るとは思ってなかったので、用意する暇もなく
寝起きでぼさぼさのまま車に乗せられた。
おじさんも運転手もバリっとスーツを着ているけど、わたしらは
サンダルにタイパンみたいな格好で、これでいいのかと訪ねると
「いいのいいの」と言われ、そのまま会場に向かった。

会場は外にある大広場みたいな所で、こんなに朝早くからたくさんの
人が集まっている。
男の人ばかりで、女の人が一人もいない。
なんでだろう?と思いながら中に入っていくと、20人ぐらいが向き合って
座れるテーブルといすが30台ぐらい並べられ、どこもほぼ満席の状態で
男たちが朝からプロフ(中央アジアの名物料理、ピラフのようなもの)を
がっついている。
私も言われるがままに席に着く。
男600人の中に女の私が一人。なんかヘンな気分だった。
とにかくどんどんどんどん人が流れ込んできて、テーブルが満席になった
ころに、席で一番偉い風の人が祈りをささげる。
着席してまずはチャイを飲み、2人に1皿の、しかも相当でかい皿に盛られた
プロフが運ばれてくる。
隣と話せないぐらいの大音量の生演奏で、会話もできない。
と言っても隣りは全く知らない人同士。
だから黙々と食べ続け、みんな食べ終わったらまた偉い人がなんか言って
みんな席をあとにする。
そこに新郎新婦がいるわけでもないので食べ終わったらさっさと帰っていく。
これが各テーブルきっちり、同じくらいの時間で着席から食べ終わりまで
流れ作業のように事が運ばれて行く。

 

結婚式は3日にわたって行われるらしく、昨日は男女混合の会
今日は男だけの会だったらしい。
もちろん女の会もある。
そして私が出席できるぐらいだから、だれでも参加できる会。
できるだけ多くの人を招いて、ダンナの器の大きさを試そうというものなのかな?
この日だけで2000人がやってくると言っていた。
村人とかを片っ端から招待しているんだと思う。
芸能人でもこんなに招けないよね。

朝の炊きたてプロフがこれまた最高においしくて、朝っぱらから
ガッつり食べてしまった。
パンパンのおなかを抱えてまた車に乗せられ、もう一組がやっているという
会場にむかう。
今度は宮殿風の大きな会場で中に入ると人はガラガラ。
 

さっきと同じぐらいの人が招けるテーブルがセッティングされているけど
ざっと数えても30人ぐらいしかいない。
中には警察や軍隊の人までいる。
席に着くと、また大皿プロフが運ばれてきた。
さすがに食べれなかったけど、おじさんはまだ腹が減ってるような食べっぷりで
プロフをたいらげていた。

なんでこんなに人が居ないのか訪ねると、これはウズベキスタンとアゼルバイジャン
のカップルの結婚だということと、彼らはビジネスマフィアの一味だからだそう。
マフィアの結婚式に、一般の人が参列できるわけがない。
その代わり、警察なんかの姿があるのにはお国柄が見受けられる。
そして、なんでこの席におじさんがいるのか。
その辺は深く問うまい。。。
「プロフうまかっただろ」と自慢げに言うおじさん。
早朝だったので、秘密の儀式みたいなのでもやるのかとちょっと期待して
いたのに、結局はしごプロフをして腹いっぱいになった朝だった。

家に戻ってしばらくゆっくりしてから出発しようとおもったんだけど、家の人が
なんだかソワソワしてもう行ったほうがいいとはやし立てる。
お礼に手紙を書きたかったので住所を教えてくれと頼むけど、そんな時間も
ないぐらい焦っているようだったのできっと何かあったんだろう。
多分、近所の人が外国人が泊まってると警察にちくったかなんかだと思う。
そんなんだったので、急いでその村を出た。

私のかぜが回復するにつれ、今度はマーカスの具合が悪くなっていく。
一路シルクロードをたどり世界遺産のある「サマルカンド」に向かうが
体力がもたず、通りすがりの綿花畑で休み、そのままそこに泊まる。
翌日もさらに悪化。
サマルカンドに着いても観光はできそうもないので、そこから20キロほど
離れた「ウルグット」という、古いバザールがある村に向かう途中で休むことに。
場所を探すのも面倒だったので、民家の横の空き地に車を泊めて
マーカスを休ませる。
だけど、いつもどおり興味津々の村人たちが近くにやってくるので
なかなかゆっくり休めない。
こういうのがテント泊のつらいところでもある。
何人もの村人に、泊まりに来いと誘われるがさすがにマーカスも
くたばっていたので、ご飯だけ食べさせてもらってその後ゆっくりテントで
過ごしたら、翌日には大分回復していた。
ご飯をたべさせてくれた村人