2019/07/15

2018年グルジア車中泊の旅_⑫ルスタヴィ(骨の長文)


ルッツおじさんに会ったのは、ウクライナから黒海を渡る船の乗り場だった。



車で海を渡る乗客の待機場所に、私達より先に乗りつけて居たドイツナンバーの
パジェロ。

ロックTを着たイカつい大男と、イマドキの若い青年。
 親子二人旅だと言っていた。

ドイツから車で来ていたのは私達だけだったし、なにしろ旧東ドイツ出身者同士という
こともあり、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。

思えばこの人に会わなかったら、この旅の充実度も全く違っていたと思うぐらい
とにかく貴重な 出会いだった。

ちなみにロックTコレクションが多いらしく、乗船2日目に着ていたのは
ジミヘンの暗い表情した顔面のみが、フロントいっぱいにプリントされてるヤツだった。

ただ者ではないのは、一目瞭然だった。


 おじさんは旧東ドイツの北の方の出身で、社会主義の時代は「墓堀人」として
働いていたそうだ。

故人の埋葬に関する一切を取り仕切る仕事で、壁が崩壊するまで教会に仕えていた。

90年代に入り、身体の移動が自由になったところで、彼は「戦死者発掘人」の
道を選び、主に旧ソ連の第二次大戦の戦場地へと、遺骨の収集に出向いた。

大戦中。

ドイツと戦っていたロシアには、捕虜収容施設があちらこちらにあったそうだ。

そして戦時中、強制労働を課せられて亡くなった兵士たちが、無造作に地中に
埋められていった。

埋葬された場所に慰霊碑や墓標のようなものが建つはずもなく、 収容所が
解体された跡地には、大抵コンクリートが敷かれ、工場などが建設されたそうだ。

ソ連が解体してそういったことが明らかになり、遺族会のような財団から
支援を受け、おじさんはこの25年間ドイツ人兵士が眠っているであろう地に赴き
遺骨収集をしている。

そしてこの数年はグルジアでの発掘作業が頻繁に行われるようになり、普段は
黒海を挟んで反対側の国モルドバに住みながら、ルスタヴィにアパートを借り
年に数回長期滞在して任務に就いている。

長い前置きだけど、このおじさんの背景はそんな所にあり。



船の中で一緒だった連れの息子は、大学に入る前の最後の休みだと言って
お父さんのグルジア出向に同行していた。

おじさんはすでに離婚していて、モルドバ人女性と再婚している。

息子は普段はドイツで母親と暮らしているのだが、お父さんともっと沢山の時間を
過ごしたいんだと、ニューエラのキャップを斜め被りしている今風の若者は
何の恥じらいもなく語ってくれた。

そして彼も父親の後を追う為なのか、まずは地質学の勉強をするために秋から
大学に通うと言っていた。




ルッツおじさんに会いに、1週間ぶりに下界に舞い戻った私達は一路ルスタヴィへ。

一人暮らししている彼の家は、外観はボロボロだったけど一歩足を踏み入れれば、
例えばドイツの水準と差ほど変わらぬクオリティーのアパートだった。

近所の通りはこんな感じ


夜は近所の居酒屋に連れて行ってもらい、昼間に続きまたもやグルジア料理三昧。

全く飽きない。

そして、翌日は発掘作業の現場に同行させてもらった。

現場には2人のグルジア人作業員がいて、おじさんとの共通言語はロシア語。

ロシア語に只ならぬ憧れを抱く私にとって、ロシア語を自由自在に操るおじさんが
超絶カッコよかった。

そういえば、船の中でもそんな事を思った事を思い出した。

この現場での発掘作業はほぼ終わっており、1週間ほど前に400柱程の遺骨を
回収したらしい。

発掘した場所は、埋葬されていることなどなかったかのようにその上に建てられた工場、その工場も取り壊され、廃墟の残骸で荒れ地になって居るような広大な敷地の一角。

当時の収容所の詳細な記録は残ってないことが多く、ここだろうと目星をつけて
掘り続けても何も見つからないこともあれば、まさかここ!という所から
大量に発見されることもあるらしい。

たわわに実を付けたイチジクの木の下から、数百柱の遺骨が回収された


なので、1週間前の400というのは結構な大発掘であり、さらに1カ月単位では
合わせて600柱を収集したというから、 とてつもない快挙だったらしい。



回収した遺骨は部位ごとに仕分けされ、土嚢袋みたいなやつに入れられている。



フツーに、なんならジャガイモのストックごとく無造作に置かれている袋の中が
全部骨だなて、なかなか実感の湧かない空間。

例えば庭のどこかを掘っていて、突然人骨が出てきたら「ほっ、ほねーーーーー!」
 と言って腰を抜かすだろうが、 こうも大量にあるとなかなかそうもならない。

おじさんは袋から取り出した骨の説明を、淡々とし出す。

「うーん、彼は大体18才ぐらいだったのかな。」

頭蓋骨などの構造を見て、大体の年齢が分かると言っていた。

「彼」という人称代名詞を聞いたその時、これらすべてが私たちと同じように
生きていた一人一人の人間だったんだという事実が、とたんに現実味を増す。

そして、なんだか急に自分がとんでもない所にいるんだと我に返った。

「発掘された捕虜」ではなく、「埋まって居た骨」でもなく、
お母さんのお腹に命を宿し、この世に生を受け、今目の前にいる私達の息子のように
きっと幸せな幼少期を過ごした「彼ら」がここにいる。

誰が自分の未来に「袋に入って回収される自分」なんて事を想像しただろうか。

息子の姿と、頭蓋骨のみの18才の彼が重なり、とても胸が苦しくなった。





おじさんはこんな事も教えてくれた。

戦地に赴く兵士には、管理番号、名前、宗教などが刻まれた金属製のネームタグが
必ず渡されていた。

 例えば戦死した兵士の遺体の損傷が激しく、身元確認が難しい時などは
このタグこそがが、個人情報を確定できる術だった。

埋葬される兵士も同じく、敵国の兵士であっても遺体にこのネームタグさえ
添えてくれれば、後々身元が分かることだってある。

しかし、ここルスタヴィの捕虜たちとネームタグが同時に発掘されることはなく、
ということは、全員が身元不明の無縁仏。

「まあ、ロシア人がそんな親切なことするわけないよね」

大戦中、時には悪魔とも呼ばれ、誰もが慄いたロシア人兵士の冷酷さを考えると
敵国の兵士なんぞ、死んだらゴミ扱いだったんでしょう。

ロシア人に限らず、世界全体が狂気に侵されていた時代。
どの国の兵士も皆、自分が生き残るために人を殺した。

戦争の話は、色々聞いたことがあるけど
無数の戦死者の骨を見ることで、やっと実態を伴ってあの悲惨な歴史を
想像することができたというか。

以前ユダヤ人の強制収容所に行った時と同じ感覚。

百聞は一見にしかずということで。
 
おじさんは何年もこの活動をしているので、そんな感傷に浸ることもないんだろうし、
実際、骨の扱いとかも

「ちょっ、それ人の骨だから、つか、人だったんだから」と

心の中でいつも突っ込みを入れていたぐらい、なんなら床に頭蓋骨をパコっと
置いたりしていたし。

 

だけど、どんな気持ちで堀り続けているのだろう。

それは聞くことはできなかったけど、
見つけてあげた人々を祖国に帰してあげたいし、それが叶わないなら、
せめて彼らの慰霊碑を建ててあげたいと言っていた。

戦争時代を知っていた遺族の方々も次々にこの世を去っているので、
この活動を支える財団の基金も年々少なくなってきているらしい。

後どれだけ活動できるかは分からないが、1人でも多くの遺骨を収集してほしい
という願いと、これ以上こんな惨たらしい現場が他にありませんようにと、

色んな思いが交錯するなか、最後手を合わせて倉庫を出てきた。

ちなみにおじさんがこの日着ていたTシャツには、フロント全面にジミヘン同様
これでもかというくらいデカいドクロがプリントされていた。
シュールすぎるて。


やはり、ただ者ではないみたいだ。

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