2015/10/29

東欧旅行記_ポーランド9(krakau)


大都会ワルシャワに続きやってきたのは、クラクフ。

17世紀に都がワルシャワに移る前まではポーランドの首都であったことから、古都の貫禄
たっぷりで、欧米では大人気の観光都市。






キャンピングカーが入れる駐車場はどこかにあったはずだけど、ちょうど土日で路駐ができる
いいところを発見してしまったため、そこに車を止めて自転車で街へと向かう。

ピザ屋さんの前だった。



有名な中央広場はまれに見る観光客密度で、そのうえ猛暑ともなれば、もう観光どころでは
ないので、サクッと街散策を切り上げ、せっかくなのでピザを買って、川沿いの芝生に座りながら
ピクニック。

もう、何しに来たんだか。




観光客向けのバザールで、民族衣装発見。

クラクフは大学がたくさんあり、学生が多い街らしく、今時ポーランドの若者の姿がよく目に
ついた。

長髪でジャンベ叩いてバスキングしてるポーランド人とか、この国に来て初めて見た。

ドイツではそんなのうじゃうじゃいるのに。


そして若者の街なので裏通りを歩けば、おしゃれなバーとかカフェがこれでもかというくらい
あった。

飲みに来るには、面白い街なのかもしれない。

だけど、翌日行ってもっと面白そうだったのが、ユダヤ人ゲットーがあったエリア。

「シンドラーのリスト」のシンドラーはこの近くに工場を持っていたこともあり、映画の多くの
シーンが、ここで撮影されたのだとか。

超大作の長編映画だったな。
ハタチぐらいの頃だったけか、映画館に観にいったなぁ。






このエリアは一時は閑散としていたらしいけど、今では開発が進み、個性的でオシャレな
お店がいっぱいあった。

バックパッカーが泊まり歩く安宿もこのエリアに集中してるらしく、旅人欧米人の姿も
久々に見たな。


最後に教会に立ち寄りこの街を後にし、目指すはザコパネ、山方面。

この教会は、このニュアンスを自宅のどこかに取り入れたいと思うほど、独特な
美しさがあった。











2015/10/28

東欧旅行記_ポーランド8(Warszawa)

ポーランドの首都、ワルシャワに到着。

ここはスルーする予定だったけど、通り道だったので寄り道することに。

とりあえず、旧市街だけサクッと見てまわり、路上駐車で一泊した。


私の見る目がないといってしまえばそれまでだけど、これといって見どころがないというのが
正直な感想。

それでも古い町並みは、新市街よりはましだとおもうけど。











なぜかすし屋のウィンドウに、明治時代の水入れ帳が。これってけっこう価値ありな物のような気がする。



ポーランド食堂



裏通りには保存指定の建物がけっこうあった。










美しい壁のレリーフがある建物も廃墟に。



名物の?タルタル(ユッケ的なもの)、約2,5ユーロ



ギンギラギンがさりげなくねー

大都会というだけあって、ここもまた観光客でごった返しており、そこでよく目についたのは
ジプシー系の物乞い。

それと、ものすごく洗練されたフォークロアのギャラリー兼ショップがあり、ポーランドの
伝統工芸のすばらしさに感激させられっぱなしだった。

翌日は街のはずれにある大型ショッピングモールの前に1日中居座り、Ikeaの野良電波で
ネット三昧の日だった。

ここでちょっと入ってみたベビー用品の店が、ドイツにあるどこの店よりも、強いて言うなら
赤ちゃん本舗よりも品揃えが良くてびっくりした。

そして、モールで見つけた日本のラーメンショップで注文したラーメンが、インスタントだった。

「3分でできます」

と言われたとき、気付けば良かった。。。


以上

そんな、他愛もない思い出が残ったワルシャワでの出来事


2015/10/19

東欧旅行記_ポーランド7(Masuren)

ドラクエ城を訪れ、その後数日は大雨の日が続き、その辺で寝泊まりしながら地道に
距離を進めた。

途中見かけた、ちょっと趣味の悪そうな教会に立ち寄ってみる。

ポーランドはカトリック信者が多い国。

宗派がどうこうとは別にして、カトリック教会は特に、あの無駄な豪華さ派手さや、ゴチャゴチャ
っぷりをちょっと覗いてみたいという好奇心があり、寺巡りをするような感覚でよく立ち寄る。


だって、このピンクだもの。見るからに、、、、



やっぱり中身は見た目を裏切らなかった。









ああ、もうキラッキラのゴッチャゴチャ。

余白の美意識というのが全く感じられないのも、ある意味すごいなと。
そんなもの、こんなところに求めてもいないけど。

「す、隙間がない、ワーオ」

という、どうでもよい感想をいつも残し、立ち去るのです。

見る目がない人から言わせれば、こんなものです。


あ、さて

天気も回復しつつあったある日、ポーランド北部のマズーリィ地方に移動し湖や川の近くで2日
程過ごす。

ここも自然豊かなレジャースポットが点在する地方で、とにかくすごい人。

川ではカヌーの渋滞ができていたほどだった。

湖畔のキャンプサイト。白鳥さんは常連客



かわいいんだけど近づくと「フヲォォォォォォ」と威嚇されて怖かった





ここのキャンピングも9割はドイツ人で、前後と右はドイツ人に囲まれた。
ちょうどこの日、キャンピングに着いた瞬間に車が壊れてしまい、ここで直せなかったら
次に移動できないという難問にぶち当たってしまい。
しかし、ここはドイツ。
あ、ちがった。
ポーランドだけどドイツ以上にドイツ人密度が濃いポーランドのキャンプサイト。
ドイツ人キャンパーの修理技術、知恵と経験が集結すれば、そんな問題なんのその。
修理しているマーを覗きにオジサンたちが来ては、あーだこーだのアドバイスをもらい、
車の故障なんて、ものの数時間で直りました。
マーが車の修理をしている数時間、私はたまってる洗濯物や昼食作りで手が塞がっていて。
くり坊くんはしばらく放置状態で芝生で一人遊びをしていたんだけど、唯一左隣にいた
ポーランド人ファミリーキャンパーの10歳ぐらいの娘さんが、ずーっと面倒を見ていてくれた。
彼はホントに人見知りをしない子なので、良く言えばこういう時はホントに助かる。
外食しに行っても、ウェイトレスのお姉さんがキッチンにくり坊を連れていって遊んでくれたり
そのおかげでゆっくり食事もできたし、お土産屋のおばちゃんと店番したり。
この日もお姉ちゃんにだっこされて、連れまわされていたっけ。
悪く言えば、だれにでもホイホイニコニコついて行ってしまうので、注意が必要。
ガードがゆるすぎて、隙だらけ 笑
翌日さよならする時、くり坊をもう一度だっこしながら女の子の目にうっすら涙が浮かんでいて、
こっちまで泣きそうになった。
あの子はきっと将来、いいお母さんになるよ。
そんな思い出が残ったマズーリィ地方。
私たちは首都ワルシャワに向かう途中のガソリンスタンドで一泊し、久々の大都会へと
滑り込んだ。

続 

2015/10/06

東欧旅行記_ポーランド6 (Malbolk)

次に私たちが向かったのはMalbolk.

Marienburgというドイツ語の名前がある通り、ここは13世紀にドイツ人の騎士団によって
建設された城。

ポーランドとドイツは隣国であることから、過去の領土関係なんかは簡単に説明できるものでは
ないんだけど、ある時ここはドイツ領で、またある時はポーランドが取り返して、、、、というのを
繰り返している。

だから、今でもポーランドの町にはドイツ名があるところが多い。

マークスの4世代ぐらい前の家族も、今はポーランドだけどその昔はドイツ領という所の出で、
彼らもまた純粋なドイツ人だった。

さてこのお城。

私は城とかに一切興味がないんだけ、このお城は珍しく「オオっ!」と思った。

金銀財宝キラキラ感が一切なく、ここはまるでドラクエの世界。








城の中は見学できるようになってたけど、ガイドをつけて入らなくちゃいけないらしく、しかも
2時間ぐらい説明を聞きながら回るとのことで、入らなかった。

外からでも十分楽しめたし、とにかく大きくてすごい存在感だった。

れんが造りのお城としてはヨーロッパで1番大きいんだとか。もちろん世界遺産。




      




ここに訪れたのは週末で、「中世フェスティバル」的なものがやっていて、余計に楽しさが
増してラッキーだった。

ドイツでもこういうのよくあるんだけど、ここMalbolkのお祭りはドイツのやつよりも完成度が
高くて、ホントに面白かった。









中でも目を引いたのは、このスモークオーブン。

地中で燻した煙が、巨大な木の釜に上がってゆくしくみ。







直径1,5mはありそうな大きな木をくり抜いてある。






とにかく安くて、種類も豊富


まぁ、カゴ好きとしてはここで4つほど買いましたけど。。。


意外に楽しかったのは、色々お買い物ができたからかなーなんて。

宿泊は、この城を目の前に臨むキャンプサイト。

ここでもまた、ドイツ人キャンパーが8割といったところ。

ここ、本当にポーランド??というぐらい、全然ドイツ感がぬけてなく、遠くに来た気が
しなかったなー。








東欧旅行記_ポーランド5 (Stutthof)

Danzigの後はまた海方面に向かい、マーはサーフィン、私と坊は砂遊びという1日を過ごし
翌日向かったのは、ナチス時代の強制収容所「Stutthof」。

戦時中は主にポーランド人が収容されていた小さな収容所で、後に拡張されてユダヤ人や
ソ連人が大量に送り込まれた所。

強制収容所なんて、行ってみたいと思ったことは1度もなかった。

負の世界遺産であるアウシュビッツも、うちからそう遠くはない所にあるし、ドイツの至る所に
収容所跡はあるわけなんだけど、あんな所に行ったらダークすぎて、トラウマを
抱えて帰ってくるだけじゃないかと思っていた。

怖いモノ見たさという言葉があるけど、私にとって「そこ」は、怖いモノを上回る好奇心などなく
ただただもう怖すぎて悲しすぎて、見たくないというのが正直なところだった。

それでも今回足を運んだのは、たまたま近くを通る予定があったから。

でも怖いので、軽い気持ちでは行けない。
前日まで悩んだけど、行ってみることにした。

気持ちはずっしりと、翌日ぐらいまで重かった。

8万5千人虐殺された収容所、Stutthof。






 



この施設に向かう道の数キロ前から、多分今は使われていないであろう線路が車道沿いに
ずーっと敷いてあって、なんとなくこの線路の行き先は収容所なんだろうかと思っていたら
本当にそうだった。

その線路はこの施設の端っこの方で途切れていた。

ここが終着駅。






かつては収容者たちが働いていた工場や牢屋のようなところも、今は資料館のようになっており、ここから生き延びた生存者たちの証言や、収容所の仕組みやSSがどのように機能していたかとか、パネルや実物書類などの展示物がたくさんあった。




見るに堪えない収容者たちの最期の写真の数々、そして怖すぎて悲しすぎて写真に収める
ことなど私には無理だった、何万足もの靴の山。

遺体の写真とか遺骨の山を見るよりも、ここで死んでいった人達ひとりひとりの輪郭が浮かび
上がってくるような展示物だった。

小さな女の子の革靴、私の息子がやっとはけるぐらいの大きさの靴。
幅の細いパンプス、先のとんがった紳士靴。

腹の底から何とも言えない怒りと、絶望感が込み上げてきた。

「人間が、なんでこんなことができるようになっちゃったんだろうか。」








       






これはユダヤ人の収容者名簿で、身体的特徴や宗教の有無などの他に、捕獲された理由が
書いてある。

「理由:環境整備の一環として」


一瞬目を疑ったが、本当にこんな時代があったんだなと。

まるで人間を、野良犬とかゴミのように扱い、そして「処理」していたという歴史。

たった70年前に実際にあった、地獄の現場。








いったん外に出て、ちょっと気持ちを落ち着かせてみる。

そして施設のちょうど真ん中にある一本道を辿っていると、ツーンと涙が込み上げてきた。

泣いたら恥ずかしいと思うも、止めどもなくあふれてくる涙を、うつむいて隠しながら
猛暑の中をトボトボと歩いた。


突き当りの建物は病棟で、隣にガス室と焼却炉



この道の終わりにあったパネルを見たとき、ここがガス室だと知った。

「最終処分所」

生と死の境目。

この先で殺されることが分かっていても、弱り果てて抵抗する力もない人々が次々と
ガス室に放り込まれ、そして燃やされていった。

ポーランド人達はフラッシュを光らせながら、ガス室の中の様子をバンバン写真に
納めていた。

まるで、ここが最大の写真スポットかのように。







 



一通り見終わって、来た道をまた歩いていると、マーと坊の姿が遠くに見えた。

敷地内に広がる青々とした芝生の上を、あれから70年経って生まれた我が息子が
無垢な笑顔で這いずりまわっている。

あまりにも平和な光景と、たった70年前にここで起こっていたことのギャップに唖然としながら
収容所を後にした。


その後しばらく数日間は、平和について、戦争について、そして命の重さについて
考えなくもなかった。

だけど、今回ここに足を運んだ結果、私の興味の矛先は、人類史上最悪の狂人ヒトラーに
向かうことになった。

これは意外な展開だった。

彼の一存で、何百万人という尊い命が断たれ、彼の一言で、救えることができたであろう
何百万という命があった。

たった一人の人間のとてつもない権力。

狂気の時代。

かつては愛くるしい無邪気な赤ちゃん時代があったはずの人間が、狂人になりゆく過程と
その思想とはどんなものだったのか、詳しく知りたくなった。

そして旅を終えて、帰宅後すぐに「我が闘争」を注文した。

ドイツではネオナチの聖典になるのを危惧し発行禁止になっているけど、日本語では
読めてしまうのだ。

ついでに、アウシュビッツの所長だった男の手記も手に入れた。

強制収容所跡。

こういう場所があることで、今を生きるドイツ人は狂気の歴史から逃げられない。

先祖が起こした後ろめたい過去。
この話題になると心のどこかであの時代を恥じているというのを、マークスを見ていてよく思う。

日本人とドイツ人とでは、戦争の歴史の受け止め方が全然違うことにもよく気付かされる。

収容所を出て、今日の事をもう少し何か話すかなと思っていたけど、二人ともなんだか
考え込んでしまい、口数がやけに少ない1日になった。

Stutthofの訪問は、想像よりも重かった。