2009/10/22

Uzbekistan I

ビザも無事そろい、ウズベキスタンに向けて出発。
3700mの峠越えは、超きつかったぁ。
それと同時に酷いかぜをひいてしまい国境までの出来事は
あまり覚えてない。

なんとかたどり着いた国境。
タジク側では、滞在期間に問題があると難癖をつけられる。
その内容がめちゃめちゃなので、ここに書くのもアホらしいんだけど
とにかく取り合う気は一切なかったので、座り込みを決行。
時間はたっぷりあるので、相手の気が変わるまで待つことにした。
結局1時間もしないうちに、理由も告げずあっさりと解放してくれた。

ウズベキスタン側入管。
入るや否や体温計を渡される。
入国する人全員検温する規則らしい。
なんだったんだろう?高熱だったら入れてくれないとかなのかな?
熱はなかったのでそこは通過して、通関コーナーへ。
今回の通関が一番厳しかった。
今までは、車のドアをあけるとすごい荷物なので職員が見るのも
嫌がって、細かくチェックされることもなかったんだけど、今回は
ルーフテントも開けさせられ、車の中のもの全部出しX線のゲートに
全部通せと言われた。
なんとかそれは免れ、犬が車の中を嗅ぎまくって検査が終わった。

10月13日。5カ国目!
ウズベキスタンに無事に入国!
その日は通りかかった湖で1泊して、翌日首都タシケントに到着!
タシケントには次の次の国アゼルバイジャンのビザ取りと
待ちに待った救援物資の引き取りに。
この救援物資受け渡し作戦は、日本に住む友達がウズベキスタンを旅すると
決まった時から始まった。
かれこれ3ヶ月も前になるか・・・
どの道私たちもウズベキスタンに来る予定ではあったけど、彼女の
滞在期間にあわせて来るのは難しそうだったので、タシケントの
日本センターと言う所に問い合わせをして、荷物を預かっておいて
もらうよう依頼しておいた。
見ず知らずの旅人の荷物を預かってくれてほんとありがたかったです。
頼んだものは主に、車から盗まれてしまったもの。
味噌だのしょうゆだの化粧水だの、とにかく沢山のものを頼んで
しまったけど、旅慣れてる頼もしい友達のおかげ様で無事に受け取る
ことが出来た。
しえちゃんありがと!!!
竹の子の里、一粒づつ大事に食べるからね!

アゼルバイジャンのビザは、様子のおかしい大使のおかげで1日待つ羽目に。
なので街から近いホテルに泊まる。
ホテルの有料駐車場に車を停めに行ったら、隣りの車のトランクが誰かに
こじ開けられ盗難にあった直後で、車のオーナーが駐車場の管理人にぶち切れてた。
そんな駐車場に車を停めるのは気が引けたけど、さすが2台目はないでしょう。
少なくとも今日は。
管理人がちゃんと仕事をしてくれる事を願って、いかにもソ連チックな安ホテルで
ぐっすり眠った。

翌日、アゼルバイジャンビザを無事にGET。日本人の私はまたもや無料。
ここでは埼玉から自転車でやってきた人に会った。ヨーロッパまで行くらしいので
ドイツでまた会えたらいいな。

今回のアゼルバイジャンでビザ取りは終了。
この作業から解放されるだけで、街付近で過ごすこともなくなるので大分楽になる。

タシケントは東京のような大都会でこれと言って見所もなさそうなので
とっとと去り、シルクロードを辿って世界遺産サマルカンドに向かう。

日も暮れだしたので寝床を探すけど、そういえばウズベキスタンって
川があんまりないのを忘れてた。
遥か遠いアラル海から農業用水をひっぱってきているぐらい水源に乏しい国。
山もあんまりないから困ったぞ。寝るとこがない。
しかもこの国、滞在登録っていう面倒くさい制度があって、中央アジアの中では
それが一番厳しい国らしい。
人のうちに泊まるのも、また泊めてあげるのもやっかいな手続きがあるので
今までの国みたく気軽に泊めてくれそうもない。
仕方ないから綿花畑の隅っこに場所を見つけたんだけど、近くにいた農民が
やってきて結局その人のおうちに招待され泊まらせてもらった。
意外にあっさりだったので無駄な心配だったかな。

夕食時、近所に住む親戚やら母さんがやってきてにぎやかになってきた。
この家は女系家族で色々あわせて8人の子供のうち、1人しか男の子がいなかった。
そのせいもあってか、お父さん連中が妙にやさしかった。

そしてそこにいた一人のおじさんに、明日の朝結婚式の前祝いが2組あるから
一緒に行こうと誘われ、面白そうだから付いて行くことになった。

2009/10/19

The Way To Dushanbe

首都デゥジャンベに向かう途中、道のあちこちに地雷が埋まってる地域がある。
内戦はとっくに終わったけど、まだまだ危険地帯は沢山あるみたい。
私たちが知らずに入ろうとした川辺も地雷地帯だったけど、運良く消えかかってる
「地雷!」マークを見つけて、入らずにすんだ。
危なかった~。
大抵地雷が撤去されている地帯は、海外のボランティアとか何かの団体が撤去作業に
加わっていて、安全とされる所には英語の看板が立っている。
その日泊まったところはその作業現場の跡地だったんだけど、大量の地雷やら
小型爆弾の残骸が残されていた。
内戦が終わった後も、地元の人はこの地雷と隣り合わせに暮らしている悲惨な事実。
今でもタジク人による撤去作業は行われているみたい。
安心して暮らせる日が1日も早く来ますように。。。

翌日、峠の途中の検問所でデゥジャンベまで行くというヒッチハイカーを拾う。
ベラルースから来た彼は、3ヶ月間で中央アジアをヒッチして周るらしい。
前にモスクワからエジプトまでヒッチハイクで行ったこともあるくらいの達人。
今回の旅は彼にとってものすごく素晴らしい毎日のようで、ロシア語圏で言葉が通じると
いうのと、さらにベラルースも旧ソ連から独立した国ということもあり、行く先々皆が兄弟の
ようにもてなしてくれると言っていた。
私たちもけっこう色々もてなされてるほうだけど、「ゲスト」としてであって、
彼の言う「兄弟のように」というのとは全く別物だと、彼のとった写真を見たり
話を聞いたりして思った。



首都に近づくにつれ、老人の格好が仙人みたくなってくる。
白い立派なあごひげを蓄え、長いガウンみたいなのを着て帽子の上にさらに
ターバンまで巻いている。
パミールを抜けたこともあって、谷の言葉ではなく、タジク語が聞こえるように
なってきた。
例のシールチャイも出てこなくなった。

結局ホーローグから4日かけてデゥジャンベに到着。
相当な悪路だったけけど、街から100kmぐらいのころからアスファルトの道に
変わった。
ついでに警察の数も多くなり、この日というかこの朝の2時間ぐらいの間で計7回も警察に止められる。
全ポイントで難癖つけられ金を要求されるが、今回はロシア語がちゃんとできる
彼を載せているので、軽く切り抜けられた。

べラルースの彼とはここでお別れ。
モスクワに住んでいるというので今度絶対遊びに行こう!
モスクワ超行きたい!
だけど、車でだけは来ないでねと言われた。
速攻でパクられるらしいです。

さてさて、今回デゥジャンベ訪問のメインイベント。
隣国ウズベキスタンのビザと、その先のカザフスタンビザ。
開館時間内にウズベク大使館に行ったけど、市場のように地元の人でごった返していてその日は取り合ってくれず、翌朝一番乗りで行くことに。
カザフ大使館は1日起きにしか開いてないので、出直すことになった。
近くの食堂でラグマンという中央アジア風のうどんを食べて(これが大当たり!!)
さっそくこの前ワハンで出合ったグリャを訪ねに行った。

マーカスが彼女の家のドアをノックしたとき、ちょうど友達と私達の話をしていたらしく
ドアを開けたら私達がいたので、相当ビックリしていた。
家にはダンナさんと娘とお姑さんと姪っ子の5人暮らし。
団地みたいなところで1ルームに5人とは超きつそうだったけど、
それでも暖かく迎え入れてくれその日はキッチンで眠らせてもらった。



夜は一緒に料理したり、どこの世界でもある嫁による姑のへの愚痴を聞いてあげたり、
結婚式のビデオを見せてもらったりした。
これがめちゃめちゃ面白かった。
特に去年ダンナの弟のが挙げた結婚式は見もので、1度顔を見ただけの女性と結婚するというお見合い結婚にも満たない結婚式。
もちろんイスラムの伝統に則って行う儀式。
そろそろ結婚する時期だけど彼女がいないので、叔母にたのんで紹介してもらったらしい。
成立するのが不思議だけど、これも宗教観の違い。
今は子供も一人生まれて幸せに暮らしているらしい。



翌日開館30分前にウズベク大使館に行くが、すでに扉の前には人だかりが出来ていた。
と言っても、私らみたいな旅行者じゃなく、タジキスタン人の集団。
隣の国なのに入国するには、やはりビザがいるらしい。
扉が開き今度は一斉に受付まで猛ダッシュ。
私たちは幸い事前に用意した招待状があったので、難なく当日の受け取りができた。
ウズベキスタンのビザ申請はホントに面倒だと前情報があったので、事前に色々手を
尽くし招待状を取得しておいた。
これがあるのと無いのでは対応が全然ちがうらしく、同じくそこに居合わせた旅行者は
5日間毎日通ってるけどまだもらえないだとか、3日で出来るよう手数料を払ったのに
5日たってもまだもらえないだとか、トラブルが続出のようだった。

ビザの値段がこれまた安くて、日本人の私は18ドルでドイツ人は65ドル。
ちなみにキルギスは無料。
マーカスは120ドル。
今回申請したカザフスタンのビザもタダだった。
ロシアで取ったカザフビザは40ドルもしたのに・・・何でだろ?
国籍が違うだけで払う値段も違うなんておかしな話だよな~。
私は随分得をしているみたいだけど。
日本のパスポート、最強!

大使館や領事館は大きな街にしかないから、ビザ待ちの時間が一番こまる。
だけど今回は近くにグリャがいたり、車の旅をしているドイツ人とフランス人の老夫婦と
駐車場で寝泊りしたり、その駐車場の管理人の兄ちゃんとタジキスタンミュージックの
DVDを見まくったりと、退屈することは無かった。
そして同じ食堂に4日連続で通い、同じものを連続で食べるなど、私にしては珍しく
都会を満喫しデゥジャンベを後にした。

Wahkan Valley II

ワハン渓谷3日目。
泊まらせもらったのは、山の中腹に住むワハン人一家の家。
最初この家のお父さんを畑で見つけて、その畑にの端っこに車を停めさせて
もらうだけのはずだったけど、結局家に招かれ夕食を頂き、プレゼントまで頂いて
しまった。
そして翌日、朝食はシールチャイ。
そういえば、前の日に立ち寄った家でもシールチャイだった。
家に招いてもらうのはホントにありがたいんだけど、シールチャイだけは頂けない。
キルギスの肉のもてなしの時のように。。。


一家とお別れをしてその日は「イシカシム」という村でやってるバザールに向かう。
タジキスタン、アフガニスタンの商人が一同になって週末市場を開催している所。
向かう途中、庭で育てたりんごやトマトをバザールに売りに行く女の子がヒッチハイクして
いたので乗せて行ってあげる。
首都デゥジャンべの大学に通っている彼女は、英語が話せる25歳。
一児の母でもある。
3ヶ月実家のあるワハンで過ごしていて、週明けにデゥジャンべの住んでいるところに帰るけど
今日は最後にお母さんの手伝いでバザールに行くと言っていた。

バザールはまさに国境線上行われている青空市場なんだけど、機関銃むき出しの
兵隊が所々に立っている。
門番にパスポートを預けて会場に入ると、アフガン人とタジク人でごった返していた。
アフガニスタンの商人はみんな民族衣装(?)のような服に、ターバンみたいな
格好で分かりやすかった。日本でもお馴染みのアフガンストールももちろん売っていた。
さっき道でひろった子グリャと一緒にバザールを練り歩く。すっかり仲良しになってしまい
デゥジャンベに行ったら必ず訪ねるからねと約束した。

       
        ≪川を渡ったところがバザール会場≫


一通り見終わって返り際、パスポートを返してもらいにいくとなんとそこに日本人のパスポートが2冊!
こんなところに他に日本人がいるなんて!
早速出てくるのを1時間ぐらい待ち伏せした。
ようやく対面したのは大阪から来ていた夫婦。
やすくんとかおりちゃん。
このあと同じ街まで向かうというので、ついでに車に乗ってもらいキャンプすることになった。
彼らは3月ごろ日本を出発して、タイから周辺の国を周り北上してパキスタン、中国、
そして中央アジアを巡っているところだった。
2年ぐらいかけて色んなところに行くらしい。
のんびーリ旅をしていて、マイペースで素敵なカップルだった。

宮大工の訓練校に通っていた彼の話やら旅の経緯やら色んな話を、
しかも日本語で話せた時間はホントに楽しかった。
しかもアフガニスタンの国境でね。
そして極めつけは彼らが持っていた「ゴールデンカレー中辛」。
涙もんだった。
日本のカレー最高!

そんな感じで楽しい時を過ごし、次の日は石灰棚に沸いた不思議な温泉
「ガラムチャシュマ」に行って、もう一泊共にして翌日大きな街ムルガーブに到着。
このあとアフガニスタンに行く彼らを、大使館の前で降ろしサヨウナラ。
ドイツできっとまた会えると思う。
フットワークの軽い彼らだからきっと訪ねてくるだろう。
メチャメチャいい出会いだった!!


ムルガーブのバザールで買い物を済まし近くの川で洗濯をして、そのままそこに泊まることにした。
翌日から私だけ激しい胃痛と腹痛と吐き気に襲われ動けなくなる。
腐ったトマトを食べてしまったらしい。
2日寝込んで回復した。

ムルガーブからデゥジャンベに向かう途中、ルシャンという村から東側に入っていくと
バータンバレーという美しい谷がある。
ロンリープラネットではミュージシャンがたくさん住む村と紹介してある。
村の途中で大きなくるみの木を見つけ、そこの下で一泊。
ハンモックをつるして、のんびりゆるゆるの1日だった。

子供たちが遊びにやってきて薪を一緒に拾ったり、山仕事を終えたおじさんと一緒にくるみを
拾ったり、久々ゆっくりご飯をつくったり。。。
この場所がすっかり気に入ってしまったけど、そうもゆっくりしていられないので翌日出発。
途中バターを探しに訪ねた村のある家でお茶に招かれる。
偶然にもそこは村長さんの家で、村の話やワハンの文化など色々教えてもらった。
英語の先生をしていたという近所のおじさんもいたので、色んな話を詳しく聞けた。

ワハンの人は今でも伝統的な暮らしをしていて、家の形も屋根がなく天井に小さな
窓が帽子のようにちょこっと乗っかっていて独特な形をしている。
土と石で出来た家が多い。
農業と畜産が主な収入源で、家畜の使い方や麦の収穫の仕方なども多分100年前から
変わってないんじゃないかというぐらい、機械の出番がほとんどない。
その代わり人がする仕事は増えるけど、生活して食べていくのに一家の老人から子供まで
それぞれにちゃんとした役割がある。
その毎日の仕事の中で伝統が言い伝えられ、文化がちゃんと守られる。
そのベースにあるのはイスラムの教えで、宗教観が大きく係わっている。

「私たちは貧しいけど、素晴らしい文化があるから幸せだよ」
村長が言っていた。
そしてそれを言い伝えていくのが彼の使命。
貴重な話を聞けて良かったな。
「いつでも鍵あけとくから、朝でも夜中でも又訪ねておいでね」
そんなお別れの挨拶。
 パミールやワハンでは当たり前らしい。
何なんだ、この神みたいな人達は!
 今日も素晴らしき出会いに感謝!

村長はからはくるみと桑の実をどっさりもらって、私達はこの村を後にした。


2009/10/12

Wakhan Valley I

遊牧民の朝は早かった。

娘はヤクの乳搾りに出かけ、私たちは放牧しに行く男たちと朝ごはん。


パミールの朝の食事は「シールチャイ」という牛や山羊のミルクティーに塩を入れて

その中にバターを溶かしてパンを浸して食べるのが定番。

早速頂きましたが・・・・なんともいえないお味。

昔飼っていた犬(チャビ犬)のご飯を思い出した。

きっついなぁ。

一族とお別れをして、ワハン渓谷に向かう。




道沿いにある大きな「ZorKul」という湖の辺りから、タジキスタンと

アフガニスタンの国境線がバリ線みたいなので区切られてるのが見えるように
なってきた。

ワハン渓谷

タジキスタンとアフガニスタンの国境を流れるパミール川の渓谷なんだけど

住んでいたのは元々は同じ谷の民族、ただの「ワハン人」だった。

だけど領地の問題で帝政ロシアや大英帝国やらに川を境にバスッっと国境線が

引かれてしまって、川の南側をアフガニスタン、北側をタジキスタンの

2国に分けられてしまった所。


 渡ろうと思えば余裕で渡れるけど、見つかったら即射撃らしい。

でも、とにかくこの渓谷の秘境感ったらない。

よくぞここまでやって来れた、私達!

こういう所、ナショナルジオグラフィックでしか見たことないし!
             
向こう岸はアフガニスタン
ワハンに来て、しばらく走ったところで今日は泊まることにする。

とは言うものの、泊まる所がこの川沿いにしかなく、ということはアフガニスタンとの

国境で野宿するのと全く同じで、さっきまで内心ソワッっとしてたんだけど

ここにきてマーカスに不満をぶちまけた。

なんか私達、無防備すぎるのではないかい?

しかし彼は、ここはタジキスタンなのに何の心配があるの???となかなか

分かってくれない。

たしかにそうだけど、川幅5mもなくてバリ線ももうなくなっていて、

あっち側のアフガニスタンの人々が何をしているのかが分かるぐらいの距離。

「アフガニスタン=タリバン」

という偏見。

多聞に漏れず、しっかりと自分にも刷り込まれていることがよーく分かった。

私の恐怖心は、ジワジワと絶頂に達しそうになっていた。

しかし他に泊まれそうな場所もないので、仕方なくそこで1晩過ごすことになった。




夜になって、戦争の話がはじまった。

なんでテロが起きたか、その前にアメリカがどういう国だか考えたことがあるか。

中央アジアや中東の歴史の話から宗教の話になり、なぜ戦争がはじまるのか、

なんでアメリカは戦争をやめられないのか。

話がヒートアップしまくった。

私が知っていることと、マーカスが知っていることにものすごく差がある。

平和ボケのニッポン人とは私の事だと思った。

それでも私なりに世界情勢のことは気になるし色々考える時だってある。

でも結局はイスラム圏=過激派テロリスト、危険。

 大抵の人はそう思うんじゃないかな?

日本で報道されてることがすべてじゃないし、その内容もどこまで本当かわからない。

知っている物事の量じゃなくて、真実を知って自分の意見を持つことがいかに

大事かね。

たしかに情勢が不安定なところはあるし、危険区域だってあるしまだ沢山の人が

犠牲になってるのも事実。

ってこれはアフガニスタンの話。

5m先の国の話。

ここはタジキスタンだし、内戦なんてとっくに終わってるし、すぐそこに

アフガンのおっさんがいるけど、どこにでもいる普通のおっさんなんだ。

マーカスと色々話をして、新たにいろんな事を教えてもらって

ネガティブなフィルターがぺロッっと一枚はがれた感じ。

明日からの国境の旅は大いに楽しめる!

と思うことにして、多少恐怖がくすぶってる感が否めないまま、ワハンの旅は

続き 、次の日からも同じような川沿いで寝床を探す。



向こう岸のアフガニスタンには、馬やロバに荷物をどっさり載せた男たちが西の方に

むかって行くのが見える。

後で聞いたら彼らはパキスタンから来ていて、バザールで商売する人達だと言っていた。

シルクロードを旅するキャラバンは、きっとこんな感じだったんだろうな。




ナショジオの表紙を飾れそうな少女
昼間走るワハン渓谷は、ほんとにすごい。

こっちに回って来て、大正解だった。

こんなところに道路があるってこともほんとすごいことだし、

半端じゃなくデカい山、どこまでも深い谷は美しいの一言。

空も青すぎるしヒンデゥ・クシュも見えちゃったし、次から次へと色んな風景が

スライドショウを見ているかのように移り変わって行き、そのどれもにいちいち

感動していた。

車で来れて良かった、車が戻ってきてホントによかった。

あの一件の傷は、これにて完治いたしました。
                     
                      ≪山写真≫







 ワハン数日目の出来事。

途中で機関銃剥き出しの国境警備隊に遭遇。

車を停められパスポートやらビザを確認した後、車の中の検査が始まった。

道端でこんなことされると思っても無かった。

しかもマーカスが動こうとするたびその兵隊2人ともが、ポシェットみたいなのに

入ってる小型の拳銃に手をそえて発射準備をする。

これ、変装した山賊とかだったらどうしよう。

色んな思いが駆け巡る。

私が恐怖に慄いている間、マーカスはこの道端荷物検査に腹をたて、

全部見やがれと言わんばかりに、相手の足元に積んでるものをバンバン放り投げている。

普段ものすごーく温厚な彼だが、怒るポイントと怒る相手、 そこなの???

この人の空気が読めなさもそうだが、

権威にあからさまに盾突く我が夫を目の前にして、私はさらに慄いた。

私がビビリすぎなのか。

これで相手が怒っちゃったらどうすんの??

 君、丸腰だよ。


結局何にも問題が無い事を知るとあっさり解放してくれたけど、

やっぱまだ怖かったのでその日はどうも外で寝る気にならず、

近くの村で車を停めさせてくれる人探しを始めたのだった。

Pamir Highway

タジキスタン側の入管から1時間ほど先に行って、カラコルという湖に到着。
標高3900m。
コバルト色をした綺麗な湖だったけど、高さも高さなので湖畔では植物が育たず
塩が干上がっていた。
生命の匂いが一切しない、さびしく音のない湖。
さすがに空気も薄くなり、ちょっと動くだけで息が切れる。



翌日、パミールハイウェイで標高が最も高い4600mの峠を超えてムルガーブという
街に到着。
ここまでの道のり、想像してた以上に道の状態が良かった。


バザールでキルギス人のおじさんに、ドルからタジクソモニに両替してもらう。

タジキスタンに入ったというのに、キルギスの民族帽をかぶったおじさんたちが
たくさんいる。
国の北側に住んでるのは殆どキルギス人だとおじさんが言っていた。


街外れに温泉があるというので、道の途中の谷間で一泊して次の日行ってみた。
その日はラマダン明けの祝日だったので、沢山の人が訪れていた。
地元の人は1ソモ二だけど、わたし達は5ソモニ払うことになった。
若い女の子たちとスイカを食べながら入った温泉は汚かったけど、彼女たちが
声を揃えて歌うアラビック調の歌は、風呂エコーの効果もあって鳥肌もんだった。

その日はマーカスが男風呂で出会ったムルガーブに住むイスマイールという
パミール人のお家に招待され泊まらせてもらった。



マーカスと同じ32歳の彼はロシア人と結婚していたけど、その嫁の酒の飲みすぎが
原因で離婚したと言っていた。

タジキスタンも国土の9割以上をパミール山脈で占められていて、その谷ごとに
違う言葉を話す。
違う言葉と言っても共通点が多いことから、方言があるもの同士が話している
ような感覚らしい。
でもそこにウズベク人やキルギス人などが入ってくると、彼らの共通の言語である
ロシア語で会話が始まる。

中央アジア、南下するごとに文化や人々の生活様式が変わって行き、
着ている物も色濃くなってくる。
ちょっとずつ混ざり合ってきて、国境付近でごちゃ混ぜになって
またその国独自の色になっていくのをゆっくり眺められるのも、
陸路でのんびり行く旅の楽しみでもある。
しかもロシア語が広い範囲でまだ通じるのがありがたい。
これがもし各国違う言葉を話すようだったら、出来ることも
見えてくる物もまた違うものになっていたと思う。
あと警察との交渉とかも。

パミールハイウェイ4日目


この道路から南に外れた所にワハン渓谷というところがある。
ちょうどアフガニスタンとの国境を流れる川で、この川の北側にタジク人
南側にアフガニスタン人の村が点在している。

パミールにきたら、こっち側のルート「ワハン回廊」が断然面白いと言われていたので、
事前に通行許可をもらっておいた。
そのワハンに入る前に、もっと外れた所にも行ってみようということで、
道も不確かなまま足を伸ばしてみた。

見るもの全てが山な風景。
とにかくすごいんだけど、キルギスからずーっとこんな山を通ってきているので
ちょっと感動が薄れてくる。
相変わらず人の気配がなく、寂しく冷たい風が吹き荒れるところだった。
途中でユルタを発見。
ちょっと中を拝見させてもらいたかっただけなんだけど、お茶やらなにやらで
もてなして頂き、これから移動するのは、ものすごい強風だから危険と言われ
その日はそこに泊まらせてもらう事になった。
 彼らはキルギス人の遊牧民で、夏の間だけこの地にユルタを建て羊とヤクを育てている。
前に泊まったユルタと違い、今度は本物の遊牧民が暮らすユルタだった。


夕暮れ時、マーカスは男たちと家畜を集めに出かけ、私はお母さんと娘が
夕食の準備をするのを見ていた。
娘がうどんを打ち、お母さんが羊を煮込む。
ゆっくり2時間ぐらいかけて出来上がったごちそうは
ラグマンという中央アジアではおなじみの家庭料理で、ここではみんな
手でそのまま食べる。
これがまためちゃめちゃ美味しかった。
電気もないので一つだけランプを灯し、みんなで大皿を囲んでゆっくりの食事の時間が流れる。




食事が終わったら、することもないので早速寝る準備。
色とりどりの布団をいっぱいに敷き詰める。
ユルタには土の上に敷きもの程度の床しかないので
敷布団は多めにたっぷり敷く。
外は真っ暗で、ものすごい強風で雪まで降ってきた。
巨大な山脈の間にぽつんと一つだけあるユルタに、大人たちが川の字になって
死んだように静かに眠っている。
地続きだけど完全に隔離され、私達は円の中の囲われた安心空間にいる。
いやしかし、そう考えると外の世界がデカすぎて、怖くなってくる。
広所恐怖症なのか、閉所恐怖症なのか、良く分からない次元のソワソワが
襲ってくる。
異次元空間、未体験な空間であることは間違いなく。
とにかく、なかなか寝付けずにいた夜だった。

2009/10/04

The way to pamir highway

キルギスのオシュのチャイハナで人間観察。

街は人でごった返している。

キルギスの民族帽をかぶったおじさんや

超長い立派なあごひげを生やした敬虔なモスレム。

日本人そっくりな中国系、朝鮮系の人もいれば、金髪のロシア人もちらほら。

街で流れる音楽もなんとなくアラビック調で、民族衣装を身にまとい。目を除いて

顔全体をスカーフで覆う女性もたくさんいる。

同じキルギスでも、北と南とでは文化も人種も全く違うのには驚いた。

いよいよイスラム文化圏に突入したんだとワクワクしてきたけど、

同時になんだかソワソワする。

無秩序に混雑する街中で、目だし帽にライフル銃を構えている軍服の男たちを

見かけたり、彫りの深い顔、鋭い目で凝視されるとちょっと怖い。

なんだかすっきり楽しむことが出来ない。

日が暮れる前に街から出て、郊外で寝床探しをしていたら途中でバンニャを発見。

初めてのキルギスキイバニャ。

最初は一人で独占だったけど地元の子供たちが入ってきて、質問攻めに会う。

しまいには歌を歌ってと言われたので、さっそくあの歌を歌ってみた。

日本語が珍しいのもあってか、拍手喝采だった。


山の方に向かい暗い中何とか寝床を探して、翌日からパミールハイウェイ入り。

すでに自分たちがいるところから、もうその道は始まっているようだった。

山道のあちこちで中国出資の道路工事が行われている。

キルギスに道路を作ってあげる代わりに、山にある資源もらってを中国に運びこむ。

こうやって中国はいろんな国から色んな資源をかき集めているらしい。

そんな道をグングン登っていく。

山の景色がこれまた素晴らしすぎる。




途中アメリカ人とドイツ人のチャリダーに会った。

ポルトガルを5ヶ月前に出発して北京に向かう途中だと言っていた。




夕暮れ前にキルギス側最後の村、ボルデビョ村に着く。

雪で覆われた巨大な山がバックにドカーンとある小さな村。

タジキスタンに入るとディーゼルがなかなか手に入らなく、

あっても質が悪いらしいのでここでタンクと車に積んだ7個分のタンクを

全部満タンにした。

カフェで食事を取り、村からちょっと離れた所で寝ることにする。

すでにそこは3000メートルを超えていて、その大地の先に富士山よりでかい山が

脈を成している。

ということは6000メートル級の山脈ってこと。

世界の屋根に近づいているんだという実感がわいてくる。

とうとう来ちゃった!



翌日キルギス側の入管に到着。

出国スタンプの日付が前日のままだった。直してもらったけど。

相当暇な所なんだろうな。

だけど難なく出国。

ここは国境が同じ場所になくて、一旦キルギスを出て山道を1時間ぐらい行った

先にタジキスタンの入管にたどり着いた。

タジキスタンイミグレーション。

オフィスらしい建物が一切無く、コンテナみたいな建物がポツポツ並び各部署が

点在している。

通関の書類を作る所は、部屋というか小屋で4畳ぐらいの部屋に二段ベッドが

2台置いてあって、そのベッドの一つがオフィスみたいなすごい所だった。

そして手続きの最中も、このオフィスではアフガン対ロシアの戦争ムービーが

テレビで放映されていた。

書類を作り終え、次は車持ち込みの書類を作成。

ここも小屋みたいなところで、中にいる職員だか誰かの友達だか分からない

人たちがテーブルで食事をしていて、そのテーブルで書類を作成。

パミール人、タジク人、キルギス人がごった返していて色んな言葉が飛び交う。

多分払う必要はないんだろう手数料を払って、タジキスタンに無事入国した。