2010/01/23

ダンシングピーポー

①トルコ、アンタクヤで会ったアリとメハメッド。
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②グルジア、ワールドビジョンの打ち上げ会場にて
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③グルジア、セイントジョージアデイの前日のお祝い、レストランにて
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2010/01/13

旅を終えて

バンザイ!自宅前にて

ゴールして1週間が経ちました。

出発前は想像もできなかったドイツへのゴール。

大雪の銀世界の中、たどり着いたマーカスの故郷は雪に覆われていて、

記憶の中にあるはずのこの街がぼんやり霞み

知らない所に来たみたいだった。

「あれ、どこに来ちゃったんだろう??」


マークスの両親は、深夜まで親友の誕生パーティで自宅を出払っているというので

その会場に向かい、彼らと久々の再会を果たす。

たった半年ぶりの再会だったが、これに涙する人もいた。

いろいろあったもんね・・・

わたしたちは、12時間ドライブの末たどり着いたということもあり

涙どころか、そこにある食べ物にがっついて空腹を満たし、

ビールを一気に飲み干す事が最優先だった。

意外とあっけなく。

滑り込んで帰国という感じ。

とはいえ、かなりの達成感はあった。


「今日どこ行く?」

「えー、とりあえず西方面」

たいていこうやって1日が始まり、

日本から、バカみたいにずーーーーーっと西を目指した9カ月。

何もかもが初めての事だらけで、困ることも多々あったけど

だんだんとこの旅に適応していってる自分が、とても斬新で

意外と頼もしかった。



もしこの旅をせず、故郷の東京からドイツのこんな田舎町に

飛行機でひとっ飛びで来たら、

どういう気持ちでこの「移住初日」を迎えたんだろう?

これまた想像できないけど、

間違いなくこの旅から学べたことは、

今後いろんな形やいろんな気持ちになって

私のドイツ生活を豊かにしてくれるんだと思う。


この先も旅している感覚を忘れず、暮らして行きたい。

人生は旅の縮図だとは、上手い事言ったものだ。

自分の歩いていく道で、新しい人に出会い、新しい出来事に出会い

新しい自分を発見する。

物質的に移動することだけが旅ではなく、

小さな日常の中でも、ずっと旅は続くだろう。


旅の延長に日常があり、日常に旅している日々。

そういうのが、いいな。

早くも定住地となったここドイツでも、

毎日がまだまだ冒険みたいな日々。

とにかく、先ほど住民登録を済ませ晴れてこの街の住民となった。

住所不定家なし無職、放浪の旅人が、

役所の開館時間を気にして朝起きるような生活に

とうとう戻ってきた。

なんとなく不自由な感じ、だけど絶大な安心感。

帰る家があるって、なんて素敵なことなんだろう!

そんな感じでいつものごとく、まとまらない締めくくりにはなりますが

旅ブログこれにて終了。

文字や言葉にすらできないことが沢山ありすぎて、

どこまで伝わったかわからないけど

読んでくれたみなさん、コメントをくれた皆さん、

たまに返事もできなかったりしたこともあったと思うけど

応援してくれてありがとう!!!

アップしきれなかった写真や映像は、時間を見つけて

チョコチョコアップしてゆくのでたまにのぞいて見てください。


人生第2章目が始まったよーー!

GOAL!!!!!!!!!


1月9日深夜12時ちょうど
ドイツに到着いたしました!!!

とりあえずご報告まで!

おめでとー!オレ達!

2010/01/09

Istanbul to Europe LAAAAAAAAST

ブルガリアの国境超え。

もう完全にヨーロッパです。

EU加盟国はマーカスにとっては、国に帰ったのも同然だけど

私にとっては未開の地がたくさんのヨーロッパ。

帰り道とはいえ見るもの全て新鮮で、退屈することはなかった。

そして旅が終わり、新しい生活がもう始まっている事を実感する。

ブルガリアは、ブルガリアのヨーグルトを買うためだけにスーパーに立ち寄る。

マーカス的には解せない、日本人のミーハー魂。

ブルガリアと言ったら、ヨーグルトだろうが!

首都ソフィアに行く途中の丘で1泊し、この日がこの旅最後のテント泊となる。


400kmごとに国境があるヨーロッパ。

ブルガリアを出て数時間後、セルビアの国境を越える。

この日はどこかで泊まってから、

友達が住む「ノヴィサド」という街に行くはずだった。

だけど寒すぎて外で寝れないと判断し、そのまま突っ走って

首都ベオグラードを超え、10時間ドライブの後、

ノヴィサドに到着する。


ノヴィサドの要塞から見下ろす町並み。中世な風景そのもの。
初めてお会いするセルビア人。                   

マーカスの友達のミランはエンジニア、そして奥さんのエレナは彫刻家で

二人とも面白い人だった。

アンニャという4歳の娘も可愛かったなぁ。

それぞれの親の家に遊びにいったり、芸術家に友達のアトリエを訪ねたり

街観光をしたりの数日。

そして、あっという間に大晦日。






カウントダウンは街の中心で行うフリーのコンサート。

若者からお年寄りまで、年明けを祝う音楽好きの人々が

雨降る中集結していた。

セルビアのパンクバンド、フォークミュージックを演奏するバンド、

メタルっぽいバンド、ギャルバンド。いろんなバンドがいたけど、

一番人気だったのは50歳ぐらいだけどいまだ現役のパンクバンド。

キャリアも長く、セルビアのラモーンズといったところでしょうか。

国民的スターバンドらしく、大盛り上がりだった。

そして2010年は、セルビアのジプシーミューックと共に幕が開きました。

26日の深夜から年を越して1月2日まで、このノヴィサドで過ごす。

一週間近く滞在させてくれた友達には、これまた感謝しかない。



セルビアを出ると完全にEU加盟国が連なるので、国境らしき国境がない。

ゲートは開けっ放しで、管理する人もいない。

ハンガリー、スロバキアを通り過ぎて2日の夜、

マーカスの叔母さんが住むウィーンまでやってきた。

そしてこの数日、完全にこもってこのブログを書き終えました。

というのは、ドイツについたらやることがいっぱいありすぎるので、

ブログどころではないことが分かっていたから。



大分目途がついてきたところで昨日、初めてウィーン観光にいってきた。






お目当ては何と言っても、かねてから大ファンであった

「フンデルト・ヴァッサー」のクンストハウス。

彼の作品を間近で見ることができたけど、3年前に別の建造物を

ドイツで見たときよりも、なぜだろう、感動が薄れていた。

趣味が変わったのかな?



そんな訳でここ1ヶ月分の記事を続けてアップしました。

パソコンに向かいすぎて、気持ちがわるい。

ついでに写真もアップしました。

過去のものも、記事内に写真を入れたりしてみました。


いよいよ明日ウィーンを離れ、ドイツに向かいます。

大雪が降っていて、どれだけかかるかわからないけど、

ホントにホントにゴールです。

旅のまとめは、また後ほど。

ではでは、最後まで事故らないように行ってきます!!

,,,,,,,,,,と、書き終えたところでギブアップ。

今記事を全てアップしてましたが、写真までは及ばず。

写真のアップはまた今度にします。とりあえず記事のみ終わったぞー!!

Istanbul

カサバを出て翌日、首都アンカラに到着。

これと言って見所はないんだけど、安宿が多くあるみたいなので

1日だけ滞在することにする。

翌日、旧市街にある「コユンバザール」というところに足を伸ばす。



雰囲気がいいところだったけど、雨が降っていたこともあり早々に引き上げ、

一路イスタンブールへ。

途中の山を越えるころ雪が降り出したので、通りがかったホテルで1泊して、

翌日イスタンブールに到着。

イスタンブールは、アジア側とヨーロッパ側に分かれていて、

アジア側に新市街があり、黒海から南下してマルマラ海に通じている

ボスフォラス海峡を超えると、そっち側がヨーロッパ。

海峡を渡る大橋で、「とうとうヨーロッパまで来ちゃったね~」と、

二人してため息。

とうとうヨーロッパ、だけど私達にとっては旅の終わりを意味し、

ちょっと寂しい気分になる。

まあ最後イスタンブール、大いに楽しもう!

なんてったって、今日結婚記念日なんですから!!!!

渋滞の道を潜り抜け、スルタナーメットという世界遺産に登録されている

歴史地区にやってきた。

ホテルを探すのに車を止めていると、沢山の客引きが声を掛けてくる。

結局通常40ドルする部屋を半額で借りることができ、

2日そこに泊まることにした。

観光シーズンではないので、経営体制もユルユルで、

ホテルの1階にあるカフェテリアは今は閉めているから、

勝手にキッチン使って料理していいよと言われた。

とは言っても今日は結婚1周年の記念日。

そんな日にこんなロケーションなんて、サイコー。

美味しそうなレストランにでも行き、ワインでも空けて。。。

なんて思ってたけど、時間も遅くなってしまっていたので、

結局キッチンで、パスタを作って食べた。

どっちらけである。

別にマーカスのせいではないけど、八つ当たりをして不貞寝する。

かわいそうなマーカス。

いじわるな私。


翌日反省して気を取り直してイスタンブール観光へ。

有名なブルーモスクは、当たり前だけど写真で見るよりもはるかに美しく

その内部もすごくきれいだった。

だけど、人がいすぎ。

これはもう仕方のないことだけど、オフシーズンのこの時期にこれだけの

人が居るんだったら、観光シーズンは一体どうなっちゃうのか、

考えただけでも恐ろしかった。



ガイドブックに乗っていた「エジプシャンバザール」という所に行ってみる。

「生活臭が漂い、地元客が多く観光客値段でないのがうれしい」

と書いてあったので行ってみたけど観光客だらけで、

私達がいつも行っているようなローカルなバザールでの値段を考えると、

5~10倍ぐらいの値段がするものばかりだった。

イスタンブールの竹下通り

ぶらぶらと町を散策して夜になり、今日こそ念願のレストランで食事をして

結婚1周年のお祝いをした。

レストランにはお酒がなかったので、

ビールでも買ってホテルのカフェテリアで飲もうかと思ったんだけど、

ここでもお酒を飲むことが禁止されていて、

そういえばイスラム国家だったということを思い出した。

地方ではガンガン飲んでいたけどね。。。


翌日、イスタンブールを後にして国境の街「エディルネ」に向かう。

春のように暖かかったので、久々にテント泊が楽しかった。

トルコの旅を終え、ブルガリアに突入。

EUに入ったということは、これ以降完全に帰り道。

ある意味この日私達の旅が終わったようなものだった。

まあ、家に着くまでが旅ではあるんだけど、

高速道路を駆使し、今までにない速さで距離を進め

ドイツを目指す。

After KALE village and kappadokia

とまあ、なんだかんだと文句の付け所も多かったのですが
それだけじゃなく楽しいこともいっぱいあったカレ村。
忘れちゃいけないのは、私達お招きに預かってるってこと。

4日間一緒に過ごしたイエテル。
たまにパニック障害の発作が起こりハラハラすることもあったけど、
落ち着いてるときはものすごく元気で
子供のような心をもったかわいいおばちゃんだった。
そして同い年とは思えなく、私を洗ってくれたムネヴェルは、
豪快な肝っ玉母ちゃんだった。


暑っ苦しいほどおせっかいで、面倒見が良い人たち。
最後はほんとにウルルン滞在記ばりに、彼らの姿が見えなくなるまで
手を振り続けた。
ウジェルの豪邸が経つ頃、もう一度遊びに来よう思う。
たまに来る分には、最高にいい場所だと思う。

村を後にし、これからはドイツまでの帰り道。
イスケンデルンを出てからは、北に行くにつれ寒くなってきて
旅の終わりを実感する。

12月17日。
一番楽しみにしていたカッパドキアに到着。
このエリアは地球の物とは思えない、変な形をした岩が一面に広がり
違う惑星にでも来てしまったような所だ。
谷には「妖精の煙突」と呼ばれるシメジダケみたいな形のでっかい岩や、
無数の洞窟住居が点在する。

何千万年の時間をかけて、雨風や川の激流などが作り出した
このへんてこな奇岩の群れは、期待通りのすばらしい場所だった。






天気が悪いのが残念だったけど、
 ギョレメの谷という、ものすごいへんてこな岩がある谷の近くに
泊まることにする。
こんなところで野宿できるのも、車旅のすばらしいところ。
でもメチャメチャ寒かった。

結局2日程ここで過ごし、近くに温泉があるというのでそこに寄ってから
イスタンブールに向かうことにする。

道に迷っていると、男の人が車を横につけてきて
「何か困ったことでも?」と
親切にも訪ねてきてくれた。
エルズィンという名の彼は、ドイツで仕事をしていたことがあり
ドイツ語がペラペラで、その場ですぐ打ち解けてしまい、
一緒に温泉まで行くことになった。
トルコ有数の観光地でもある「アンタルヤ」というところで
 カーペット屋を営む彼は、最初50歳ぐらいかと思ったけど、
私と同じ年でびっくりした。
逆に彼は私を20歳ソコソコの女だと思ったらしく、
これまたびっくりしていた。

とにかく、仕事も順調な彼は。長期休暇で地元であるこの町に帰省中で
ホリデーだから楽しまなくっちゃといって、高級温泉リゾートに連れていかれた。
ホテル付属の日帰り温泉はそこまで高くなかったけど、
泊まれば1泊200ドルもする高級ホテルが
沢山建っているスパリゾートだった。
値段はともかく、久々にあったかいお湯につかり、
身も心もフニャフニャにほぐれて、生まれ変わった気分だった。
やっぱお風呂って必要だな。
お風呂の王様に通っていた遠い日々に思いを馳せて、ちょっと切なくなった。
ドイツって、あっつい温泉ないんだよな~・・・・

温泉を終えて、彼の住む街へ戻り
この日は彼のいとこの家に泊まらせてもらうことになった。
夜になって、近くの酒場に酒を飲みに行く。
相変わらず男の人しかいなくて、トイレも男子専用で相当困った。
そして彼の叔父だという超偉そうなヒゲのおじさんがやってきて、
「今日の酒代は全部俺が持つ」と、太っ腹なことを言い、
全部おごってもらった。
ビールを何本か空け、私達は眠くなってきたので帰ることになり、
エルズィンはこれからギョレメのホテルに女を買いに行くと言って
去っていった。

翌朝泊めてくれたうちの家族と一緒に朝食をとる。
ここの家のお父さんもドイツで15年働いていて、ドイツ語がベラベラだった。
噂どおり、ドイツ語が話せる人がほんとに多い国だった。

そして寝不足気味のエルズィンにお別れを言いに家まで行き、
この街を後にした。

トルコの「カサバ」という街での出来事だった。

Iskenderun KALE3

パン焼きを終えて一休みして、その日の午後。
イエテルとその他何人かの子供たちでと、海まで散歩しに出かける。
そこで私が自分のズボンとサンダルに履き替えると、イエテルが
「なんで履き替えるの?」と、不思議そうに訪ねてきた。
なんでもかんでも
自分のサンダルに履き替えるのに、 何の問題があるというのだ。
大した問題でもないんだけど、なんだか腹がたってしまい
そのまま無視して海へ向かった。


シリアとの国境20kmに位置するこの村の
目と鼻の先に広がる地中海には軍事エリアも存在し、
発射台に載せられたミサイルが数機、むき出しで設置してあった。
平和な村とはなんともミスマッチな風景。

散歩を終えて、その辺でおしゃべりしているおばちゃん達の輪に加わる。
家の前にイスを持ち出してチャイを飲みながらおしゃべりする
 習慣のあるこの村の人たちは、一家に10台以上は道端用のイスがあり、
いつでも誰でもウェルカムなのだ。
そうしておしゃべりをしていると、私のサンダルが履き替えられている
ことに気づかれる。
ついでにズボンも違うことに気づき、
「そうなのよ、履き替えたのよ~この子ったら」
と言っているのが、言葉がわかんなくても表情からうかがえた。
この一言で、居心地が悪くなったのはもちろん
なんだか恐ろしくなっきてしまった。



多分この村の女たちは、みんながみんな同じ容姿である事を求めている。
 同じぐらいの生活レベルで同じぐらいの大きさに家に住み、
似たような服を着てまったく個性がない。
みんなが同じということで仲間意識を保てて、安心して暮らして行ける。
もし個性を発揮するような行動や、容姿を変えるような人がいれば、
それは彼女達にとって「異質」のものになる。
異質はもちろん排除する。
たとえ旅人であっても、異質と共存するのは居心地が悪いのだ。
平和な保守的な環境を保つには、このくらいのことをしないと
「環境破壊」につながってしまう。
彼女達が恐れているのはそれだ。
もちろん自分が異質だと気付かされた人々は、とうにこの村を出ているんだろうし、
村に留まれるのは、この見えない「掟」みたいなものに
従順である人に限るような気がする。
と、説明したところで
彼女達がこんなことを考えて暮らしているとは思わない。
この村に限らず、どこの国に行ってもこういう所はある。
生きてける人は生きてけるし、ダメな人はダメなのだ。

私がそこに居るのにうんざりして、
丘の上にあるトマトハウスに行ってくると言うと、
一人であそこに行ったことがある女などの話など
聞いたことがないと言って止められる。
トマトハウスは歩いて10分ぐらいのすぐそこなのに、
そこにさえ行くことが許されないのだ。
いつもだったら
「そうですね、アハハ」
と言って軽く流すような出来事かもしれないけど
この日ばかりは、どうしても行かなきゃ気が済まなかった。
こんなのこの日限りで、
ここに住むわけじゃないのは分かっているんだけど
なんでそんなにムキになったのかわからないが、
ここでみんなの言いなりになるのが、とにかくいやだった。
それに腹も立っていた。
皆の意見を押し切ってスタスタ歩いてゆくと
丘の上からウジャルとマーカスが、バイクに乗って下りてくるのが見えた。
気まずい空気が流れまくったけど、一件落着。
そしてみんなそれぞれの家に、無言で帰っていった。

田舎ののどかな生活は憧れではあるけど、
同時にそこに住む人たちと「共存」していける覚悟があることが、
こういうところで暮らす最大の条件のような気がした。
助け合いの精神、近所同士が家族のように支えあって生きてゆくこと。
子供達が別の子供達の面倒をみて、地域全体で子育てをしていく環境。
聞こえはものすごくすばらしいけど、この村においては同時に
プライバシーというものが殆どなくなってしまってるような気がした。
右へ習えの風習も、私はどうしても受け入れることができなかった。

これも要はバランスの問題で、プライバシーや個性を尊重しあった上で、
この村のような住環境があれば、
そこはもう、ただの楽園!




Iskenderun KALE 2

メハメット家でのランチ後、風邪が完治していないせいか、
 ものすごく具合が悪くなってしまい、ソファーで横になる。
だけど、そんなことはお構いなしに、友達やら親戚やらが次々と
 この「珍客」を見にやってくる。
熱まで出始めて、はぁはぁ言ってるのにテンションの高い女たちに囲まれ
一緒に踊ろうという人まで現れる。
言葉も通じない上、なんとかジェスチャーで「眠りたい」ということを伝えるが
なかなか分かってもらえず、結局夜になって食事を終えて完全に就寝時間に
なるまで、休むことができなかった。

翌日マーカスはウジェルのトマト栽培を手伝いに出かけ、
 私は強制的に女達と1日を過ごすことになる。
 私もトマトハウスに行きたかったのに・・・
まずお風呂に入りに行こうといわれ、
 ハマンみたいなところにみんなで行くのかと思ったら、
私を洗う係の女が待っていて
 身包みはがされ、洗車するかのごとく乱暴に洗われた。
 そのあと喉をやられるといけないからといって、
らくだ色のタートルネックのロンTを着せられ、
それからみんなが履いているようなダボダボのロングスカート、
その下に履く長ズボンもプレゼントだと言って着替えさせられ、
私が着ていた服は洗濯機に放りこまれた。

私を洗ったおばちゃん、ムネヴェㇽ(同い年)

そしてメインイベント。
 「日本人のお披露目会」が始まったのである。
まず頭にスカーフを巻かれ、なぜか靴まで履き替えさせられて
村中の家を1件1件訪ねる。
親戚から親友から息子の友達からとにかく隅から隅まで訪ね
私を見せに行くのだ。
最初の数件は、いろんな人に会って家の中の様子を見ることができたり、
家ごとに出すお茶やお菓子を楽しむことができたけど、
さすがに1日中それをやると、目が回るほど疲れてしまった。
体調だって、まだ万全ではなかった。
そしてこれがもう1日続いた。
翌日村を歩くと、昨日会った人たちがみんな声を掛けてくれる。
「コトミ~、コトミ~」。
ほんと冗談じゃなくて、私の名前が通りに響きわたる。
小さな子供も意味もなく、私の名前を歌を歌うように叫んでいる。
家に帰ると、イエテルもさすがにつかれてグッタリしているけど、
この村にプライバシーというものは殆どなく、
勝手にまた、私の見物客が家に押しかける。

マーカスはというと、誰からも束縛されることなくウジェルの手伝いを
ひたすら楽しんでいた。
寝る前に私が半分愚痴まぎれに今日の出来事を語ると、
「良かったね~、みんなにかわいがってもらえて」
と喜んでる様子。
・・・・違うんだってば!!

翌朝2階にあるベッドルームからベランダに出ると、早くもコトミコール。
私が起きてくるのを見ているのか誰か分からず、ちょっと怖くなる。
結局前の家に住んでいる女の子が、キッチンにある小さな窓から
私の名前を叫んでいた。

この日はパンを焼く日。
この村のパン焼き釜は2つしかなく、そのうち1個がイエテルの
家の庭にあって、近所の人が続々と庭に集まりパンを焼いていた。
このエリアで食べるパンも、ナンに似たようなもので平たくのばして
釜の内側に貼り付けて焼くというものだった。
月に何度かまとめて焼いて冷凍保存しておき、
食事の毎にこれを自然解凍させて食べるのである。



パン作りは楽しかった。
みんなそれぞれに集中してやらなくちゃいけない仕事があり
少しでも私から目が離れるので、
その隙に部屋に駆け込んで、ブログを書いたりしていた。
まあそれもつかの間、みんなの仕事が終わるとコトミ探しが始まり、
すぐさま見つかってしまいまた囲まれて連れ出されるのだった。


Iskenderun KALE 1



1時間もしないうちに地中海にたどり着いた。

海岸沿いは金持ちの別荘エリアになっていて、

「地中海ビーチで1週間温まろう」の場所探しは困難を極める。

結局ビーチが見つからず、ちょっと見晴らしの良い崖の上に場所を見つけ

そこでしばらく温まってから、寒いドイツへ向けての

帰り支度をしようということになった。

アンタクヤからちょっと離れてきただけなのに、ここはまるで初夏の気候

そのものだった。

シリアとの国境がすぐそこにあり、この時期地中海で一番暖かいのが

このエリアだと後から教えてもらった。

ちょっと離れたところには村らしきものが見えて、そこにあるモスクから

1日5回、お祈りの合図をする歌が流れてくる。

静かで平和すぎる日々だった。


たまーに通りかかる人たちが、ミカンやらパンやらお土産を沢山もって

やってくる。

「何かいるものあるか?」と聞いてくる人までいて、

ここにずっと居たらそのうち家とか建ててくれちゃうんじゃないかというぐらい、

とにかく親切な人が沢山いた。

私といえばアンタクヤの寒さのせいで風邪をひいてしまい、

この地中海の楽園で、ほぼ寝込む羽目になってしまった。

だけど、調子もよくなってきたころ、先日からくすぶっていた英語学習欲に

火が付き、受験生ばりに勉強を始める。

「やらなきゃ、じゃなくて、やりたい!」

動機がちがうと、こんなにもスムーズに学べるのは驚きだった。

3、4日こんな感じで過ごし食料も尽きてきた頃、マーカスがすぐそこの村まで

パンとバターを買いに行くと言って出かけていった。

2時間ぐらいの後、沢山のパンとバターを持ってマーカスが戻ってきた。

きっとあの親切な人達が暮らす村なんだろう。

そこでドイツ語がベラベラのおじさんに出会ったらしく

一緒にお昼ご飯まで食べてきたらしい。

そしてその村にはビーチがあるというので、翌日移動することにする。


次の日、早速その村に行くと、マーカスが昨日あったオバちゃんが

さっそく車に駆け寄ってきて、今度は蜂蜜たっぷりのパンを持ってきてくれた。

「カレ」というその村は地中海に直に面していて、

 海沿いのゆったり時間で生きてる人々が、平和に暮らしていた。

道端にいすを持ち出し編み物をしている女たち。

金曜のお祈りの支度をしている男たち。

ここもまた時間がストップしてしてしまったようなところだけど、

なんだか私が欲しいと思う暮らしがすべてここにあるように思えた。

この時は・・・・



マーカスが昨日会ったおじさんはウジェルという人で、

30年もの間、ドイツで暮らしていた。

ドイツで自分の会社を経営するまでになったけど、不況が原因で倒産してしまい

それがきっかけで、国に帰ってのんびり暮らすことに決めたらしく

ここで土地を買い、豪邸を建設している最中だった。

将来的にはこの温暖な気候を利用して、ハウストマトの栽培で生計を立てたいらしく、

建設中の家の裏には巨大なグリーンハウスが5個もあった。

ここに来て6年経つが、

家はまだ完成せずトマトハウスも海風で何度もボロボロになり

家族と離れ暮らすこの状況を悔やみ始め、不眠症になってしまっている

ちょっとかわいそうなおじさんだった。

だけどいつか家族全員でここで暮らすことを夢見て、

毎日せっせと家作りをしているのであった。

お祈りが終わり、ウジェルの友達の家でお昼ごはんをごちそうになる。

ここに住むメハメットとイエテルという60歳近くの夫婦宅で、

この後4日間過ごすことになる。

思い出すだけでしんどいけど、続けて書きます・・・



          ≪イスケンデルン・カレ村の昼ごはん≫

2010/01/08

Antakya day 2

翌朝、マリックと一緒に英会話のレッスンに向かう。
教室に入ると7、8人の生徒がいた。先生はトルコ人の夫を持つフィリピン人の
女性で、彼女が話す英語はきれいで正しく、まさに「先生」の英語だった。
超初級の授業だったけど、分かりやすくてすごく楽しかった。
この先控えているドイツ語のレッスンも、こんなんだったらいいなと願う。



その後は、レッスンにもいたマリックの親戚のニライちゃんと、
 その友達とで流行のファストフードの店に行き、
夜はこの子のお家でご飯をご馳走になる。

                  ≪左端がニライちゃん。18歳≫


オリーブの名産地でもあるアンタクヤ。
シリア風のオリーブ料理がたくさん出てきた。
シンプルだけどめちゃめちゃ美味しかった。
そして街の半分ぐらいがどこかしらでつながっている親戚らしく、
会う人みんなを「いとこ」呼んでいた。
そのいとこ達が次々とニライちゃんの家に集結して、楽しい時間を過ごした。


そしてまた例の酒場に行ってビールを飲みシーシャをモクモクと吸い、
この日は店の空き部屋で寝かせてもらった。

翌日また英語のレッスン。
マリックが持ってきてくれたサッカーのユニフォームを着て授業を受ける。
トルコの人もサッカー好きで、いまや国民的スポーツになっているぐらい。
熱狂的なファンも、そのファンが巻き起こす事件も多いのだそう。
マリックは「ベシクタシ」というチームの大ファンで、
「僕らは同じチームだ」といって、その証にユニフォームをプレゼントしてくれた。
なんだかわかんないけど、このユニフォームを着たことが相当うれしい出来事
だったらしく、教室のベシクタシファンからバシバシ撮影をされる。
 ポーズのリクエスト。
ユニホームのエンブレムにキスをしてーーー!!
レッスンを終え、超初心者級だけど正しい英語をちゃんとした先生から学んだ
ことがきっかけで、私の英語勉強したい欲に火がついてしまった。
もう一回ちゃんと勉強しよう・・・

その日の夜はマリックの親戚の「アリ」の家に行く。
アリの家はこの街でも有名な金持ちみたいで、家も3階建てのでかい
豪邸に住んでいた。
家の壁には、日本でいう「遺影」さながら、額縁に入った家族一人一人の写真が
ズラーっと飾られていた。
他のアラブ人の家もそうだったので、きっとこれは彼らの習慣なんだろう。

18歳、ボンボン息子のアリはシーシャの依存症で、酒場に行っても片時も
パイプを離すことはなく、3時間ぐらいずーっと吸っていた。
この子が超なれなれしいんだけど、メチャメチャいい子だった。
ボンボンのダメ息子で自らオレは頭が悪いと言うんだけど、
全然「悪」のオーラが出ていなくて、ほんとバカな子供のようで、
超気に入ってしまった。

アリの家では「ラフマジュン」というトルコ風ピザを食べて、
そのあとなぜかダンス大会。
みんな踊り好きなんだな~。

そしてまたあの酒場に行き、ベシクタシのユニフォームを着てテーブルサッカーの
ゲームに熱中し夜が更けていった。


ということで突然の出会いから、アンタクヤの若者と過ごした3日間。
トルコというより、アラビックの文化触れさせてもらった日々でした。
ブクブクと水パイプの音が響き渡り、モクモクの煙だらけの室内で
若い男たちが、国や宗教の話を真剣にしている姿がとても印象的だった。

翌日そろそろおいとまする頃だと察し、アンタクヤを後にして地中海方面に
向けて出発した。

Antakuya day 1

マーカスが道端でタバコを1本訪ねたことが出会いのきっかけになり、
どういう訳かその中の1人の家に今日泊めてくれるという話になったみたいで、
その前にアンタクヤ名物の「キョフテ」という物を食べに行こうということになった。
会話の内容が確かじゃないけど、いつものノリで付いていくことにする。

「キョフテ」は、トルコ風肉団子のようなもので、これをドネルケバブのように
小麦粉でできた皮に包んで食べる、人気のファストフードだ。
かなリボリュームがあり食べ切れなかったけど、この後もアンタクヤ名物の
「キュネフェ」が食べられるカフェに連れていかれる。
「キュネフェ」は砂糖のかたまりかと思うぐらい甘い練り菓子の上に、
さらにクリームをたっぷりかけて食べるお菓子である。
一口で頭が痛くなりそうだったので、やっぱ無理といってカフェを出る。
だけどどうしてもアンタクヤ名物を体験させたいらしく、
結局違うカフェに行った。
そこには「シーシャ」という水タバコがあって、みんなでモクモク
煙を立てながら吸った。
そのうち別の友達が二人やってきて、店を出て近くにある公園に連れて行かれる。
どうやら、アンタクヤ観光をフルコースで案内してくれてるみたい。
みんな年は20歳そこそこ。
合計5人の男子と私らがぞろぞろ歩いて、公園内の鳥がいる池を見に行き、
鳥小屋の中にいる孔雀を覗きにいくという異様な光景だった。



街に戻ると、会う人会う人みんな友達のようで、
立ち止まっては私たちのことを説明し、そのまま付いてくる人もいた。
結局最後には10人ぐらいで、ぞろぞろと街を歩くことになった。
そこで会ったマリックという子が唯一英語が話せて、ようやく皆と会話が
成立するようになる。
そして、今日はマリックの知っている空家に泊まらせてもらうことになった。
マリックはロジスティックを勉強している大学生で、後々は海外で仕事をしたいらしく
英会話のレッスンにも通っている。
そして今日がちょうどレッスンの日だというので、
ついでに見学させてもらうことになった。
クラスは超初級者のコースで、中学生から警察官まで幅広い層の人たちが
英語の勉強をしていた。
そして、明日の朝にあるクラスに遊びにきてくれと招待される。

アンタクヤはシリアとの国境に近い街でもあり、住民の半分ぐらいはアラブ人だ。
この日はそのアラブ人の祝日で、アラブ人が経営する店は全部閉まっていた。

夜はマリックが住む隣町に行き、親戚が経営する食堂みたいなところで酒を飲む。
トルコでこんなことが出来るなんて、思っても見なかった。
さっき街で別れた友達の殆どがこの街の出身で、夜になってまた再開することになる。


マリックも彼らも、パスポートはトルコ人だけどルーツはアラブ人。
おじいさんがシリアや中東からの移民という人が多いみたい。
なのでもちろんアラビア語を話し、なぜか全員口をそろえて
 「トルコ人だけは信用するな」と言う。
中東・トルコの民族構成は複雑で、平和ボケのニッポン人には理解できない
問題がたくさんある。
ビンラディンはテロリストじゃん言ったら、ものすごい勢いで否定された。
こういうことは軽く口にしちゃいけないんだと思った。

そしてこの街の半分の人は、サウジアラビアやドバイに出稼ぎに出ている。
オイルマネーで沸くこれらの国は、アラブ語を話す彼らにとって
絶好の出稼ぎスポットだと言っていた。

食堂の小さな部屋で、モクモクとシーシャを吸いながら、カードゲームに熱中し
 夜がだんだんと更けていった。
二十歳そこそこの青年たちだったけど、かなりシブイ酒の飲み方だなぁと思った。


2010/01/06

The way to Antakya 2

アンタクヤに向かう途中、山沿いに寝床を見つけてさっそく
夕飯の支度に取り掛かった。
日も暮れてほとんど真っ暗になったそのとき、「JANDARMA」といわれる
トルコ軍隊の車がいきなり目の前でとまり、
ブルーのベレー帽をかぶった軍人が車の中からぞろぞろと出てきた。
その数10人あまり。
全員機関銃を持っている。
その中のボス風の人が何か言ってるけど、何せ言葉が通じないので
どうしていいか分からない。
結局ボスが英語が話せる他の軍人に電話をしてマーカスにかわると、
即刻ここから退去しろとのことだった。
ただの山のふもとだったんだけど、ここはまだ東南部の地方の村で
PKKがどこかに潜んでいるかもしれないから、危ないというのだ。
数年前にPKKによる外国人の拉致事件があってから、警備の目も
一層厳しくなりつつあるようだ。
ここは村が近くにあるし、さっきから通りかかる地元の人にもちゃんと
挨拶してるし、平和そのものな雰囲気がある土地なのに
どうしても移動しなくちゃならないらしい。
だけど、焚き火の上で炊いているピラフを途中で終わらせるわけには
いかず、移動はピラフ待ちとなった。
軍人も焚き火をかこんで苦笑い。

ピラフが炊き上がったところで、言われた通りに退去する。
今から泊まるところをさがすのが難しいと伝えると、
安全なところに連れて行ってあげるから付いて来いと言われた。
そして到着したところが、街のど真ん中にある公園。
昼間なら子供が砂場で遊んでいそうな公園だ。
この地域は、街のセンター以外に安全な場所がないと言う。
だからって本当にど真ん中で、しかもそこでテントを広げて寝るなんて無茶だ。
目立ってしょうがないし、こっちのほうがよっぽど危ない。
それを伝えると、別の安全な場所へ連れて行くと言われ
着いた所が、住宅地のど真ん中にある空き地。
とにかくセンター以外はダメだと言う。
多分また訪ねても同じような所に連れて行かれるのは目に見えていたので、
ここで寝泊まりしますと一応言っておき、軍人たちが去ったあと
私達も移動することにした。
とはいっても、あたりはもう真っ暗でそう簡単に場所が見つけられるはずがない。
違う山の方にいってもまた見回りがきて移動させられてしまうだろう。

結局通りかかった村の農家に車だけ停めさせくれと訪ねると、家の主人は
心よくOKしてくれた。
そして雨が少し降ってきていたので、家の中で食事をさせてくれた。
突然の訪問者。
言葉も通じない外国人がいきなり家にやってきて、さっき炊き上げたピラフを
がっついているのを見て、目が点になっていた。
当たり前である。
自分でもちょっとおかしいシチュエーションに苦笑いだった。

この家のおじさんは、2人の奥さんを持っていた。
一夫多妻を実践している人に初めて会った。
第一婦人に二人、第二夫人にも二人の子供がいて、一人は障害を持っている子供
だった。
そしてみんなで仲良く暮らしていた。
夫人同士もお互いを支えていて、どうやったらこういう暮らしが成り立つのか
さっぱり理解できなけど、これも宗教観の違いでしょう。


翌朝テントから出て家にいくと、第一婦人がパンを焼いていた。



トルコは良質な小麦の産地でもあり主食もパンだ。
バケットのようなものを良く食べているけど、「エキメキ」という
ナンのようなパンは、家で焼くことが多いみたい。
出来立ては格別で、これを婦人の手つくりバターとチーズと一緒に頂いたけど
絶品だった。


またまた勝手に押しかけてしまったけど、最後にお土産をどっさり持たせてくれて
このお宅を後にする。
そしてまたいつでも戻っておいでとありがたいお言葉。
トルコもやっぱり極上ホスピタリティーの国だった!


程なく目的地のアンタクヤに到着。
そこそこ大きな街だったので野良電波が簡単に拾え、久しぶりにメールのチェック
などをしていると、お金を下ろしに行っていたマーカスが3人のトルコ人を連れて
戻ってきた。

The way to Antakya

エルガニを後にして次なる目的地は「ネムルト山」。
世界遺産でもあるところで、山の上に巨大な石の神像と共に
その昔この地を治めていた王が眠っているところだ。
石像は8mにも及ぶが、地震によりその頭部だけが地面に転げ
落ちている・・・と、ガイドブックには書いてあったけど実際に行ったら
ちゃんと並んで置いてあって、しかも石像も思ったより小さくて
ちょっとがっかりした。
シーズンオフなので、夏だったら観光客でにぎわっているはずだけど
この日、私たちを含めて4人の客しかいなかった。



ネムルトを早々に後にして、地中海方面に向かう。
途中でアディヤマンというそこそこ大きい街に立ち寄りシムカードを探すが、
英語が通じなくてこちらの要求を分かってもらえず苦労する。
身振り手振りでもなかなか会話が成立せず、この国でシムカードを
買うのはあきらめた。

街を歩いていると、
「HELLO HOW ARE YOU?」
「WHERE ARE YOU FROM?」
「WELLCOME TURKEY」
「DO YOU LIKE TURKEY?」
いつでもみんなこうして笑顔で声をかけてくる。
だいたいこれが決まり文句。
だけど逆にこっちが話しかけても答え方を知らなくて、とにかく知っている
英語を言いたいだけのようだ。
聞くだけ聞いて笑顔で去ってゆく。
これもこういう文化というか、多分こういう教育がされてるんだと思った。
「外国人を見かけたら積極的に声を掛けよう!」みたいなね。
そして道を歩いているだけで「チャイ、チャイ」といってお茶のお誘いを受ける。
これはイスラム圏特有の文化だろう。
中央アジアからずっとこんな感じ。
そしてこれはトルコだけだけど、タバコを吸うとき人にも必ず勧めるのがマナー
らしい。

この日4件目のチャイどころはバイク屋さんで、完全に筆談。
車の燃料がめちゃめちゃ高いトルコをどうやって効率よく安く周れるか
アドバイスしてもらい、旅のコースも大分はっきりと見えてきて、
とりあえず、地中海沿いの街「アンタクヤ」というところを目指すことになった。

翌日もひた走ること半日、とある村の道路で信号待ちをしていらたら
 道端にある野外カフェからおじさんが歩いてきて、
 「チャイ、チャイ」と声を掛けてきた。
客引きでもなんでもなくて、ただお茶が一緒に飲みたいらしい。
面白そうなので車を停めて、おじさんの言うまま席に着きチャイをおごってもらう。
もちろん言葉なんて通じない。
だけど言葉なんて問題じゃないのだ。
ホントに人好きで、壁を作らないトルコ人。
想像もしてなかっただけに、この人たちの優しさにグッときてしまうときがある。

そしてここで話掛けてきた、英語が話せる18歳の男の子。
「ハーイ、僕の名前はアリ。デビットと呼んでね!」
と明るい笑顔で自己紹介された。
自由すぎる。
アリでいいじゃん!

トルコ人、素敵すぎる!

2010/01/04

トルコ エルガニにて


翌日は例の走り洗いが出来るくらい天気もよくて、まとめて洗濯をしていると
 おじさんがやってきた。
 トルコに来て初めての人との接触。もちろんトルコ人。
言葉が一切わからないけど、お構いなしにトルコ語でなんか言っている。
 結局すぐ近くに住んでいるから、泊まりにおいでというお誘いだったんだけど
 それを理解し、時間の約束をするのに10分はかかった。
そのあと洗濯ものが乾くのを待って、日向ぼっこをしていると子連れの男性が
 2人やって来た。
 この人たちもなんか言ってるけど、一切分からずノートを持ち出して筆談する。
 近くで結婚式をやっているので遊びにおいでとのことだった。
洗濯物が乾いたところで、結婚式をのぞきにいってみる。
 ここもまた村人が全員集まってるんじゃないかというくらい人がいた。
いきなり現れた私たちを歓迎する人もいれば、冷ややかな目で
 見る人たちもいた。

特に私は珍客らしく、動くたびに子供たちが付いてきて囲まれて合掌される。
 初めて見る日本人がどんな風に物を食べたり飲んだりするのか、
 一時も視線が逸れることがなかった。
 しまいには私の取り合いになって、もみくちゃにされた。



その後は、最初に会った子連れの男の人の家に移動する。
 家に着くとこれまたものすごい人が集まっていて、ここで初めてこの日が
 「トルコの祝日」であることを知る。
 盆と正月が一緒に来たようなものなので、親戚が一同に顔を合わせる
 機会でもあるのだ。

その中に幸運にも英語がベラベラな人がいて、ここにきてやっとちゃんと
意思の疎通が出来るようになった。
私は相変わらず子供たちに独占されて、質問攻めにあい写真を撮られまくる。

 ここにいた子供たちはとにかく、何でもかんでも美しいと言う。
 家もチャイもトイレもおばーちゃんの杖も食べ物も何でも
 「ビューティフォ、ビューティフォ」と連呼し、
 もちろん私も「ビューティフォー」と言わされて、5分おきぐらいに
 「コトミ~、アイラービュー」
 と投げキッスをされる。
 ちょっと面倒だったけど、そういう教育がされてるんだと勝手に解釈して
 乗り切ることにする。

夕食時になり床に沢山の料理が並べられた。初めてのトルコの家庭料理。


相変わらず肉肉しくて味付けもかなり濃かったけど、
 みんなで輪になって食べる料理は、いつだって楽しく美味しく頂けるものだ。

食事を終え、今夜泊まらせてもらうところに移動する。
今回は通訳役の彼がいるので、事がスムーズに運ぶ。
家につくと、さっきからずっと付きまとわれてる子供たちのお父さんがいた。
家は3階建てで、かなりリッチなファミリーだった。
このお父さんがまた変わった人で、まず自分の息子がどれだけハンサムかを語りだし、
 その後はこの家の美しさ、最後には「僕って美しいか聞いてくれ」と、
英語が話せる彼に聞く始末。
「は、はい・・・美しいと思います・・・・」というと、
「ホントに!?」と大喜びで胸のポケットにしまってある自分のプロマイドみたいなのを
数枚取り出し
「これはどう、こっちはどう?美しい?」と見せびらかす。
中には明らかに若者風に合成したものもあった。
かなりのビューティーおじさんに度肝を抜かれた。
そしてマーカスののび切ったアゴヒゲをしきりに剃りたがり、
しまいには金髪と青い目を否定しだし、
度を超えたナルシストだと言うことがわかった。

翌朝は子供たちに近所の家に連れて行かれ、
珍しい日本人のお披露目会が始まる。
言葉も一切分からないのに質問攻めにあい、悪気はないんだろうけど
答えられないとバカじゃないのかみたいに笑いが起こるので、
さすがに腹がたって、逆に日本語で質問攻めにしてやった。
ようやくこっちの気持ちも分かってもらえたみたいで開放される。

昼前には人酔いでぐったり疲れてしまった。
招いてくれたのは本当にありがたかったけど、逃げるようにこの村を後にした。

とにかくはじめてのトルコ人。
 トルコ人というかクルド人か・・・
今まであったどの国の人たちよりも人懐っこくて、強烈な印象が残った。
だけど正直、ものすごーーーくめんどくさかった。
ごめんね、ビューティーおじさん。


そしてこの「エルガニ」というところは、トルコの南東部ということもあり
クルド人が多く住む。
クルド人は独自の国家を持たない民族で、トルコを主に中東、
ヨーロッパまで方々に散らばっている少数民族だ。
自分たちの独立国家を作るため、居住国の政府との間で争いを起こしたりしている。PKK(ペーカーカー)の活動がそれである。
この日訪ねた一族もクルド人だったけど、みんながみんな争いを起こしたいわけでは
なく、トルコ人との共存を願っている平和な人たちだった。


2010/01/01

TURKEY ELGANI

旅のルートであるロシアや中央アジアに関して、

何にも知らなくて、脳内地図がまだ真っ白だった出発前、

トルコはこの旅で唯一楽しみにいていた国だった。


トルコについて知っていることは、トルコ石、ドネルケバブ、イスタンブール、

トルコ風呂、延びるアイス、イルハン君・・・

そのぐらいだったけど、一応ガイドブックは買ってあったし、

何も知らないよりましで、イスタンブールは何となくこの旅で最高の

見どころになるんじゃないかと思っていた。

だけどマーカスにとってトルコは、単なる帰り途中のヨーロッパの延長に

ある国にすぎず、特別思い入れはなくて、

彼はただ寒い所から脱出して、あったかい地中海に行く。

そのことしか考えていなかった。

トルコはでかい。

しかも、随所に見所があるらしい。

一箇所にまとまっていないから全部見て周るのは不可能で、

もう結構おなかいっぱいで見ても記憶に残らなそうだったので、

行き先を絞って1ヶ月ぐらいかけて周ってみようということになった。

とりあえず、地中海を目指して南下する。

そして言葉に関して、グルジアまではロシア語が通じたけど

今回からは英語もだめなら、完全に全身を使ってコミュニケーションを

とるしかなさそうだ。

唯一知っているのは、イスラム圏の共通の挨拶「アッサラ-ム・アレイクム!」

これぐらいなもんだ。

だけど、その昔ドイツは安賃金の労働者をトルコからたくさん受け入れていて

そのせいで、ドイツ語が話せる人が多いというのも聞いていた。

本当かどうかわからないけど、とりあえず多少の期待を抱いてトルコの旅が

始まった。


北部の寒い地域「エルスムズ」「ビンギョル」をこえて、

「エルガニ」という所までやってきた。

道の途中でちょろちょろ街を通ったけど、目だけ出してあとは全身

黒で身をまとった女性をたくさん見かけた。

地方という事もあり、今まで見た他のイスラム教の国の中でも

一番保守的な信者が多い気がした。

そして、街のあちこちで牛の解体が行われていて、トルコって羊だけじゃなくて

牛もバラしちゃうんだと思っていたらそれもそのはず。

後から聞いて分かったんだけど、この時期トルコは「クルバン・バイラム」という

一大イベントを迎えてる最中だった。

これは「犠牲祭」と言って、牛や羊を生贄にして神に捧げ、

余裕がある家族は、貧者にも分け与えるというトルコの祝日だったのだ。

日本で言うと盆と正月が一緒に来るようなものらしい。

そんなこともつゆ知らず、

山水が湧き出ていてそばに泊まれる絶好の場所を見つけた。

天気もよかったので溜まりに溜まった洗濯をして、2~3日泊まっていこう

という事になった。